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第4節

 今月読んで見ると、昔、面白かったものがすべてつまらなくなっている。「オヤ、こんなものだったかしら? あんなに感動を受けた作が?」これは私ばかりではない。誰でも皆なそういう感じを抱かぬものはあるまい。
 現に、私の書いたものなどでも、そうである。今、全集を編みかけているので、昔書いたものをぽつぽつ見ているが、何うも拙(まず)くって読めない。何うしてこんなに拙いものが、ああいふ風に世間に迎えられたろう? 『布団』などが何うしてあんなにセンセイシヨンを起したろう? こういう風に思うと、非常に耻(はず)かしくなる。そして全く一種の深い深い幻滅を感ぜずにはいられなかった。私は考えた。「芸術というものも、矢張、その書いた時だけが新しいのではないか。作者の筆から離れて来た時だけが新しくつて、すぐ古くなって了うものではないか。何んなに好いものでも古くなって了うのではないか………」私は答えを待った。答は来なかった。しかしその思考の中にも、一廉(ひとかど)の真理は含まれているように思われた。
 私はそれから暫くしてある人に言った。
「何うも、矢張、一度埋もれて了わなくては駄目だね。完全に埋もれて了わなくては? そして再び生き返える。それが、本当なんだね。そうでなければ、決して本当のものとは言えないんだね?」
「それはそうかも知れませんな」
「何しろ、僕が経験したのでも、皆なそうだもの。時がドシドシ作品を古くして了うもの………。何んなに感動を受けた作でも、五六年経てば、もう古くなっているんだもの………。それを思うと、はかないですな………。」
「でも、クラシツクとして残っているものもあるんですからな」
「いや、シエクスピイアでも、ゲエテでも、今日から見ればそう大して面白くもえらくもありませんよ。唯、クラシツクだから、雷同して豪(えら)いと思っているんですよ。矢張、その刹那だけが新しくってすぐれていると言うべきですな」
「でも………?」
「何ういうのが残って、何ういうものが亡びるか、それもわからんですもの。そういうことにも矢張、運、不運があるんですからな」
「それはそういうことはありますな」
「何うも何が何んだか、考えると、丸でわからなくなって了う!』
 私はいろいろな作をそこに持ち出して見た。『胡蝶』を。『舞姫』を。『色懺悔』を。『浮雲』を。『濁江』を。『伽羅枕』を。『多情多恨』を。『かくれんぼ』を。『たけくらべ』を。『風流仏』を。『泥水清水』を。『初恋』を。『無花果』を。『不如帰』を。それ等はすべて傑作として、褒められもし売れもしたものであったが、しかも、今日、それを読んで、猶おその新しさを、その面白さをその諸篇の上に感ずることが出来るか何うか。それは決して決して出来ないことであった。すべて皆な過ぎ去ったつまらない作品であるような気がした。しかしそれは芸術というものが刹那だけ新しく価値があるというためではなくて、それ等の作品が根本からすぐれている作でないためではないか。すぐれた作ならば、いつ読んで見ても感動されるものではないか。今度は私は外国の作品について一考した。矢張、そういう気がした。昔、読んだシエクスピイアの脚本や、ゲエテの小説や、ユウゴオの稗史(はいし※「小説」の異称)や、そういうものはすべて感じが薄かった。写生を主としたゾラの作品なども、余りに煩瑣に過ぎ、退屈に過ぎているように思われた。トルストイの作品だって、初めて読んだ時のようにフレツシユに感ずることは出来なかった。あらゆるものを古くして行く恐ろしい時の力ではないか。
 でも、本質的のものならば、いつまでも残っているのではないか。忘られずに残っているのではないか。例えて見れば、紅葉の『伽羅枕』は西鶴の感化の下に書いたものであるが──それの出た時には、西鶴以上にすら褒め立てられたものであったが、今日比べて考えて見ると、西鶴の『一代女』の深く人間の箇にまで入っているのに引かえて、『伽羅枕』はある女から身上話を聞いて、そしてそれを補綴したにとどまっているようなところがある。一つは飽(あく)までも本質的なのに、一つは要するに好加減な叙述だという風に考えられる。これが西鶴のいつまでも亡びない理由ではないか。世間並の紅葉の作品の竟(つい)に忘れられて行く理由ではないか。しかし、そうばかり簡単に言って了うことの出来ないような気がした。私はそれからそれへと考えた。近松の戯曲や、昔から伝って来た芝居が、たとえば累(かさね)とか四谷怪談とか言うようなものが、今でも倦(あ)かれない所以(ゆえん)を考えて見た。
 人間の心の底まで入って行くようなもの、人間の魂をも揺かさずに置かないようなもの、いくら年月が経っても、人間が矢張やっているようなもの、もっと詳しく言えば、不易なもの──その時だけ流行って、時が経てば、すぐ変って行って了うようなものでないもの、例えて見れば、男女のこととか、心理的のこととか、その作品の中にその時代が見えるばかりでなしに、生きた人間が覗かれて見えるようなことだとか、そういうものをつかんで書いた傑作は、いつまで経っても古くならないのではないか。そのため、作者は第一義的でなくてはならないというのではないか。その時代をすら超越するものでなくてはならないと言うのではないか。社会に捉われていては、社会の表面で行われていることだけに興味を向けていては、到底第一流の作家になることは出来ないとは言うのではないか。