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第56節

 ほっと呼吸を吐いた。そして静かにあたりを見回した。
「そうだね。それは大正三四年頃だと思うね?」
「いくつだったね?」
「年かぇ?」
「そう──」
「年は四十二三だったね。それは僕の経験だから、皆なが皆な、そうであるか、何うか、それは私にもわからないけどもね。その時分になって、始めていろいろなことがわかって来たね。人生はもうこれだけだという気がして来たね………。つまり、今まではただ、驀地(まっしぐら)に、馬車馬のように傍目も触らずに進んで来たが、始めてそこに行ってあたりを見回したんだね。そしていろいろなもののあるのに目をつけたんだね? ははア、こういうものもある。ああいうものもある。あれはあのためにああ見えた。これはこのためにこう見えた。実際はああでもこうでもなかったのである。こういう風になって来た──」
「そしてそれは決していいことじゃなかったんだね?」
「そうさ……。ほっと呼吸をつくということは、もうそれは労れた形だからね。自分のやって来たことを見回す形だからね。しかし、いくらわるくったって、何うもしようがないよ。誰だって、そういうことになって行くんだから──。今の若い人達だって何だって?」
「それはそうだね。しかし、そういう風におつとせず、回顧せずに、ぐんぐん進んで来ることはできないものかね?」
「馬車馬のように──?」
「そう──」
「できないだらうな? それは人間だから、その力の多い少いによって、そういうことの長くつづく人とつづかない人とがあるだらうけれどね。誰だって、そうなるだろうな。あたりを見回さずにはいられなくなるだらうな。」
「そういう意味から言うと、岩野君などは長くつづいた方だろうね?」
「その代り早く死んだ──」
「死んだことがそれに関係しているかしら?」
「それいるとも………。ああいふ風に向う見ずだから、そのため死ななければならなくなったんだ………。死ぬのがいやだから、あと先きを見回すようになるんだ………」
「そうだろうな。そういう形があるだろうな………」
「そこはたしかにそうだよ。何と言っても自然は大きいからね。自然ということは例の仏教で言う真如、如来、如来蔵などいうことと同じだからな。それに逆えばすぐその影響を受けるよ。だから、無理はできないよ」
「そうだね………。そしてあたりを見回した時に、何んなものが一番先に眼についたね?」
「さア」
 私はこう言わずにはいられなかった。私はその時、一番先に何を見ただらうか。「時」ではなかったらうか。「時」のいかんともすべからざることではなかったらうか。
「え?」
 Sは問うた。
「そうだね。『時』だね。『時』が一番先きに見え出して来たね?」
「と言うと?」
「つまり今までは自分だけだった。自分が中心だった。尠くとも自分を中心に太陽が回っているくらいに思って盲進して来た。また、決してその進んで行く先きがつかえているとは思っていなかった。何処までも行けると思っていた。ところが、そうでなかった。尠くとも峠に来た。もう太陽は自分ばかりを中心にして回ってはいなかった。中心がそこにもここにもあった。今までは個だけだったのが、個々の存在となった………」
「ふむ」
「つまり、自分のやっていたことの真相がはっきりと自分の眼にも見えて来たのだね? そして盲目的に自分のやったことをいいと思うことができなくなったのだね。つまり、長い『時』の中の一つの点見たいにしか見えて来なくなったんだね。だから、あの時分に書いたものには、そうしたことを慨(なげ)いたようなものが多かったよ。『時』ということが非常に問題になったよ。『時は過ぎ行く』などもその時分にできたんだからね?」
「そうかね?」
「時ということから考えて見ると、人間なんて小さなもんだからな………。大騒ぎで、夢中になってやったことでも何でも、「時」から見ると小さな、何でもないもんだからな。「時」の中には、帝王や英雄の事業でも何でも彼でも陥没して行って了うんだからな。それを考えると、自分で平気で自惚れで、大きなことをしたような顔をしていることはできなくなるからな?」
「それがいけないんじゃないか?」
「そうだ、それはいけないんだ。この世の中に生きて行くには? 活躍して行こうとするには? しかし、その時には、もはやその対照が世の中ではなくなって来ているんだからね。世の中とか世間とかいうことでなしに、もっと大きくなって行っているんだからな?」
「何ういう風に──」
「世間に成功するとか、事業に成功するとかいうことよりも、もっと考えなければならない大切なことができて来るんだからね?」
「それは何だね?」
「そうさな、それはちょっと言えないな。気分だからな、感じだからな?」
「生とか死とかいうことじゃないかね?」
「それもたしかにその中の一つだけれども、そればかりではないね。さア何って言っていいかな? もっと永遠なことを考えるような心持だな?」
「そうすれば、やはり、死とか生とかいう問題だね?」
「何しろ、いろいろなことがはっきりと分って来るんだ………。今までは何が何だかわからなかったものが皆なはっきりと見え出して来るんだ。これはこうだ。あれはああだという風に──。そしてそのために物事が十分にできなくなるんだ。また物事に対して興味がなくなって来るんだ………。つまり理解、そこから起って来る気分のようなもんだね?」
「ふむ?」
「理解は即ち空だからね?」
「ふむ?」
 Sは深く思い当るという顔の表情をした。
「折角骨を折って、いろいろなことを研究して理解すると、その向うには、何がいると思う。空がいるんだからね?」
「そうかな」
「だから、仏教でも、法華涅槃の心境に達するには、その前に、大般若六百巻に書いてある心の境を経過しなければならないとしてある! その大般若六百巻に書いてあることは何かと言うと、それは恵と識と空としかそこには書いてないからね。つまり恵で理解して空に達する。それが人生の大きな事実なんだからね? だからおどろくよ。空には『時』もないからね?」
「ふむ!」
 Sは頭を振った。
「だから、何うもしようがないよ。誰でも皆なそうなるんだから。何んなに執着のつよい、未練の深いものでも、皆なそうなって行くんだから。何うもこればかりは為方がない………。現に、紅葉にしても、二葉亭にしても、鷗外にしても、皆なそうだからな?」
「大きな人生だな!」
「その大きな人生も、空という段になると、有ると言っていいか、ないと言っていいかわからないようなものなんだからな。人生すでに然り、人間だってやはりそうじゃないか。生れたから死があり、人生というものを認めたから人生があるというようなものじゃないか。そう言って来ると、文学というものなども、文学をつくるから文学があるので、やはり、元は空だっていうことになる。それが本当じゃないか。」