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第43節

 早稲田は坪内氏の指導に待つことが非常に多く、氏が半生の力をそこに尽されたために、そのために、そこに生立った文学も立派に成長し、劇の方面も益々新しくなって行ったのではあったが、現に坪内氏のあの努力がなかったならば、とても今の早稲田になることはできなかったであろうと思われるが、しかも島村抱月氏のやった事業と精神とは、私に取って、一層忘るることのできない深い深い印象を残さしめずには置かなかったのである! 抱月氏は誰よりも一番強いはっきりしたその現代的精神を示していはしなかったであろうか。
 実行と芸術との問題は、今でも解くことのできないものになっているが、一にして二ならず、二にして一ならずと言ったような形になっているが、その問題に一番深く入って行ったのは、何と言っても二葉亭、それに次いで抱月氏であらねばならなかった。
 抱月氏は本の上ばかりでなしに、実際に海外の思潮に触れて来た人だけに、その胸の中には、いろいろなものが常にくっきりと巴渦を巻いてあらわれて来ていたに相違なかった。その胸には本能と理性との根強い争闘もあったであろうし、世間と個人との関係についての深い考察もあったであろうし、男女両性の何うすることのできない争いについての理解もあったであろうし、平凡な、退屈な、灰色のような人生に対しての反発もあったであろうし、出て行くものは飽までも出て行かなければならないという強い決心もあったであろうし、いろいろなものが実にそこに火のように燃えていたということを私は考えずにはいられなかった。
 そこにはダンヌンチオの『ジオコンダ』もあったであろう。メイテルリンクの『アグラベエンとセリセツト』もあったであろう。ハウプトマンの『寂しき人々』もあったであろう。トルストイの『アンナ・カレニナ』もあったであろう。フロオベルの『マダム・ボヴァリイ』もあったであろう。ニイチエもあったろう。イプセンもあったろう。ことに『小アイヨルフ』『ノラ』『海の夫人』などは活潑々地としてその心の中に生きていたであろう。さびしいつらい悲しい近代の心! 行く以上は何処までも行かなければならないという雄々しい勇ましい近代の心!
 抱月氏はもとはそんな人とは思われなかった。何方かと言えば、学者肌の人であった。教師としても諄々として教えて倦まないような人であった。ある時には、博士なることを目的にしているい人ではないかとすら思われたくらいだ。現に、岩野泡鳴氏などは、煮えきらない抱月氏の態度に一度ならず二度まで歯がみを鳴らしたことすらあったくらいだ。しかしかれは息火山(※休火山)ではなかった。やがてその爆発の時が来た。
 私はそこに、大きな現代的の戯曲を見たような気がした。誰がそうした戯曲を書いたか。抱月以外に誰が書いたか。否、天才が生れても容易に手をつけることができないというようなそういう戯曲をかれは実行して見せて行ったではないか。そこにはいろいろ現代化があったではなかったか。群衆と個人、師と門人、社会と自己、旧い女性と新しい女性、恋の歓楽、一生をそのために亡しても遺憾と思わない恋の焰、そうしたものがはっきりと巴渦を巻いてあらわれて来ていたではないか。誰の作よりも、もっと直接に、もっと本当に、またもっと痛切にいろいろな問題に触れて行っていたではないか。そしてその悲劇は、現代の誰の胸にも、誰の心にもまざまざとつちかわれつつあったものではなかったか。そうした悲劇の焰の中に入るのを勇ましいと感じつつも、身を亡すことを恐れて、意識的にまた無意識的に回避しつつあったものではなかったか。従ってそれに対して、誰も深い共鳴を感ぜずにはいられなかったではなかったか。誰も留息をつかずにはいられなかったではなかったか。
 私は抱月氏を個人として余りに深くは知っていなかった。染々と話して見たこともないと言ってもいいくらいであった。しかし以前から、早稲田を一番で出た時分から、理路の整然とした、感じの純な、学者肌であるにはあってもつとめてそれに捉われまいとしているかれを知っていた。文士無妻論、文士無家庭論を唱えたかれを知っていた。また近松張の小説を書いて、いくらかその晩年を暗示したようなあこがれを示していたかれを知っていた。宙外、抱月と名を並べていたけれども、あらゆる点において、抱月氏の方が本当で、真剣で、そして真面目であることを知っていた。次第に私はその家庭のさびしいという話を聞いた。止むを得ない養子であったために、愛も何もない細君と同居しなければならなかったということを聞いた。かれに取って、家庭は牢獄であったということを聞いた。かれは訪問者の前でも堪えることができないと言ったようにして、大きなあくびをしたという。それは退屈な人生に対してではなかったか。色彩のない平凡な思いのままにならない生活に対してではなかったか。私はそれを考えると、その時代の思潮が、かれの上に常に最もよく具体化されていたことを思わずにはいられなかった。
 かれは第二の恋とか、中年の恋とかいうことについて、常に最も深く共鳴していたひとりであったに相違なかった。近松(※門左衛門?)の義理人情と言ったような、ああしたロマンチツクな心持から、現代の先った自由な心持、自由な恋、自由な自己解剖に出て行ったかれは、そこに平凡な退屈な灰色な人生を感ずると共に、一方にもつと刺激の強い、色彩の濃い、自己の全生命を振盪させるようなあるものを翹望(※切実に待ち望む)してしていたに相違なかった。これに比べると、正宗、近松(※秋江)二君はぐっとちがっていた。ただ七八年違ったばかりであったけれども、正宗近松の二君の時代には、もはや抱月氏の抱いたような半ばロマンチツクで半ばリアリスチツクなああした感じを、心の色彩を持っているような人は全くなくなって了っていた。一でなければ二、二でなければ一というやうにきっぱりときまっていた。正宗君あたりの眼からは、抱月氏のやったようなことは、あるいは馬鹿馬鹿しく見えたかも知れなかった。
 またこれを泡鳴に比べて考えて見る。かれにもやはりそうした形はなかった。悲劇を馴致させて、いやでも応でも、そうなって行かなければならないというようなハメにかれは決して落ちて行かなかった。かれはてきぱきと処理した。まがりなりにも処理した。従って泡鳴の一生は直線ではあったけれども深みはなかった。何処か喜劇的のところがあった。重みというものもなかった。しかし、抱月氏のやったことに対して、白鳥と泡鳴と何方がより多く共鳴したかと言うのに、私の考では、それは無論前者ではなくて後者であったろうと思われた。
 またこれを島崎君に比べて考えて見る。これもいろいろなことを私に思わせずには置かなかった。島崎君も何方かと言えば、正宗君よりも抱月氏に近い方であった。ロマンチツクで且つリアリスチツクであった。憧憬というような分子をも沢山に持っていた。やはり旧派から新派へとでてきたようなところのある人であった。しかし抱月氏に比しては、島崎君は、芸術的であった。余りに芸術的であった。実行をも芸術で覆い包もうとするような形を示した。そこに私は「実行と芸術」という大きな潮流の時には二つに、時には一つに、合ったり離れたりして流れて行っているのを見たような気がした。
 私は二葉亭あたりから流れ出して来た「実行と芸術」の潮流が次第に大きく広くなって、いろいろな事件や悲劇をそこに漂わせるようになったことを思わずにはいられなかった。つづいてまた明治大正の作家がてんでにその背景を女で、恋で塗つているさまをも考えて見ずにはいられなかった。人間は誰でも皆なそこに落ちて行った。そしてそこで誰でもその本性を発揮した。
 ある時、私達は話した。
「そうだね。それは面白いね。そういう風に、女の方から作者を研究して見るということもおもしろいね。皆なそれぞれ話のひとつぐらい持っているね」
「つまり、作をする研究室というようなもんだね?」
 私はこう言ったが考えて、「しかし、明治二十七八年頃と明治四十二三年頃とでは、次のような違いがあるにはあるね。つまり、紅葉時代には、そういう研究室をてんでに持っていたにしても、それを本当に正面に持ち出して書こうとはしなかったね。読者にはわからないくらいに鍍して──詳しく言えば、ぐっと小説にして書いたもんだね。だから、その作はいい加減なものになって了って、そう大して感動を惹かなくなっている。それに比べると、四十二三年頃には、ぐっと突込んでいる。真に迫るという形において非常に大胆になっている。自分がやったのではあるが、同時に人間がやっているのであるという風にでてきている。そしてその最も先った点は、島村君あたりの実行に行っているんだね?」
「たしかにそうだね………」
「紅葉さんあたりだって、随分面白い女の話はあったんだからね。『金色夜叉』にしろ、『多情多恨』にしろ、そのいいところ、人を感動させるところは、皆なそうした実際の研究室からでてきたんだからね。二葉亭あたりだって、いろんなことがあったんだよ………。それに、あの時分、国学者連中、即ち落合直文とか、小中村義象(※池辺義象)とかいう人にも、いろいろなことがあったんだよ。そしてその感化が与謝野君だの内海(※信之)君だのを生んでいるんだよ。」
「そうかな」
「それはやはり男と女の世の中さ………。しかし、後期には、真面目さが加っていたということは事実だよ。」
「そう言えば、今の若い人達だって、やはりそうだね。皆な研究室を持っているようだね? 菊池君だって、里見君だって誰だって………?」
「しかし、それが何ういう風にそういう人達の作にあらわれて来るか。その真に迫る気分が何ういう程度になって出て来るのか? それが問題だね。そういう深いところから作物をば批評しなければ本当ではないね?………しかし、そういうことは何うでもいいとして、とにかく島村君のやったことは、明治大正の思潮の中心を成しているという形があるね。誰の作にあらわれたものよりも立派なすぐれた表現だと僕は思うね? 僕は早稲田というところには他にはそう大した興味を持っていないけれども、抱月氏の精神だけは共鳴せずにはいられなかったね?」私はこう行って、そのあとに残った須磨子(※松井。抱月の後追い自殺をした)がその通夜の夜にさびしそうにしていたさまを目の前に浮かべた。