血の呻き 上篇(14)
一四
雪子は、床の上へ起き上っていた。彼女は、長い間じっと彼を見ていたが一言も、彼の事を聞かないで、強くその首を抱きしめて低声で言った。
「今日はね、あの窓の外の空地へ連れてって下さいな。私もう歩けるのよ」
「僕、死ぬ程もこき使われて来たんだよ……」
明三は、弁解するように口の中で呟いた。
「でも、雪子さんは、いいの、事実に……」
「いいのよ、ね」
彼女は、そこに坐っていた老医師に言った。老医師は、憂わしげな顔をしたが、弱々しい声で答えた。
「ええ、いくらか」
「ね、連れてって頂戴。いいでしょう。私歩けるのよ」
明三は、従順に彼女の肩を抱いて立たせた。そして、自分の胸の中に靠れさせて、徐々と歩き出した。彼女は然し、弱々しい草花のように力なかった。そして、幾度も立止っては、喘ぐような吐息をして、遂に彼の胸の中へ倒れ込んでしまった。
明三は、彼女を抱いて材木置場の空地へ行った。そして、塀の下に置いてある樺の木材に腰をかけた。雪子は、彼の膝の上へ俯してしまった。䬊(※)の後の疲れたような陽光は、病衰えた花のような彼女を、惨めに照した。彼等の後から俯れてついて来た医師は、悩ましげに陽を仰いで、彼等の前に踞まった。
「ああ、私彼所の壁の下は、暗くて柩の中へでも這入ってるようなの。早く癒って、彼所を離れたいわ……」
彼女は、苦しげな息を吐いて言った。医師は顔を曇らして、この娘を見た。
「でも、私、癒るだろうか。若し立てなかったら、貴方は何所へでも行ってしまうの」
「私は、何所も行く所がないって、何時かも言ったのに……」
明三は、力ない声で言った。
「じゃあ、私の死ぬまで、此所にいて下すって……」
「何所で暮したって、死ぬまで生きてるだけの話だから……」
二人は、哀しげに黙ってしまった。老医師は、不快らしく顔を反けて、塀に沿うて歩き出した。娘は、明三の耳に唇をあてて咡いた。
「あの人は、私に癒らないような薬を飲ませるのじゃなくて。私そう思うの。私だんだん弱って暗い所へ沈んで行くような気がするのよ……」
「いいえ、そんな。あの人は、決してそんな人じゃない……」
明三は、彼女の眼に見入りながら、声を顫わして言った。
「然う」
雪子は、暗い顔をして何も言わなかった。
医師は、ちらと彼を見たが、物思わしげにそこに立止って俯れた。
明三は、ふと顔をあげると、息の止まる程も慄えた。彼は、ほんの七歩ばかりの所に杭かなぞのように立って炎のような眼をしている、時子を見た。
明三は、凍ったような眼つきをしながら、彼女に向って、のろのろと慄える手をつき出した。然し、彼女は瞬きもしなかった。そして、わなわなと慄えながら、彼を焼きつくように見つめた。
老医師は、すっかり自分の胸の上に頭を垂れていて、凡ての事に気がつかなかった。
雪子は、重たそうに頭をあげて、明三の青ざめた顔を見た。そして、吸い寄せられるように見入っている彼の視線を追ってそこに立っている時子を見ると、何か叫声でも立てようとしたふうで、乾いた脣を慄わした。
時子は、明三から雪子の顔に眼を移した。そして、もう自分が何をしているのかさえも解らない容子で、ふらふらと二足ばかり進み出た。
二人の女は、熱をもった病人のように眼を光らして、わなわなと慄えながら、視線を合せて、じっと見合った。
明三は、罠にかかって跪く獣のような惨めな顔をして殆んど呼吸さえしないで化石したように立っていた。そして、軈て、一人の女から、他の女へと、視線を移しては、何か哀訴するように唇を慄わした。
老医師は、顔をあげて、この塀の破目から現れた奇怪な女を不思議そうに見ていたが遂に手を拡げて、彼女を追うようにした。
「ああ……」
時子は、低く呻いて、泣くように顔を歪めたが身を翻して走り去った。
雪子は、長い間吸い寄せられるように其消え去った後を見送っていたが、低く呻くように呟いた。
「あれは、彼女は……」
その手は、固く締木にでもかけるように明三の手を握りしめていた。
「…………」
明三は、わなわなと慄えながら、じっと彼女の熱に憑れたような眼に見入った。
「誰なの……」
「彼女は、何でもない。知らない人です、狂人……」
彼は、苦しそうに言って、雪子の肩を抱いた。彼女は、彼の胸の中に倒れて、熱の為にぶるぶる慄えながら、譫言のようにきれぎれに呟いた。
「あれは、あれは、恐ろしい眼だわ。胸の中へ硝子の破片のように刺さってくるような……」
「いけない。どうも……。家へ行きましょう」
老医師は、彼女の上に跼まり込んで見ていたが、詰るように明三を見て言った。彼女は、明三の手を離さないで、握りしめながら発作的に欷歔いた。
雪子は、復あの暗い壁の下に横たえられた。彼女は、すっかり黙り込んでしまって、明三から手を離さないで、熱の為に慄える眼で彼に見入った。
明三は、怖々しながらその枕下に坐って、彼女の髪を撫でたり、指に接吻したりした。
日が暮れてから、菊子は戻って来た。
「姉さんは、ぐあいが悪いの……?」
少女は、じっと明三の眼を見てひそひそと訊ねた。そして、そこに踞んで雪子の手に触ってみて呟いた。
「ひどい熱ね」
明三は、哀訴るように、きく子の眼を見て、哀しげな微笑をした。雪子は、少女と彼とに手を握らせたまま、不安な痛々しい睡りに落ちた。その呼吸は、熱の為に喘ぐように、傷ましく慄えた。
その時、音もなく、あの白痴の少年がどこからか忍び込んで、薄暗い室の外をうろつきはじめた。明三は、それを見て、戦いた。そして、脅すような眼で彼を見た。
少年は、蹙め面をしたが、のろのろと手を延べて瞬きをして、出て来いと云う合図をした。明三は黙って頭を垂れた。
茂が消え去ると、彼はすぐに立上った。少女は、責めるように彼を見たが、何も言わなかった。明三は重い軛を脊負った人のように俯れて、暗い戸外へ出た。
その時、そこの暗い壁に吸着いていた時子が、突然彼の肩を烈しく摑んだ。彼女は、炎のような眼をして、彼の手をひきながら、ひそひそ声で言った。
「さあ、早く……」
「どうしたの」
「私の所へ……」
「行かないよ」
彼は、沈んだ声で言った。
「何故、何故……」
彼女は、身を悶えるようにして烈しく言った。
「娘は、熱が出てひどく悪いんだ。貴女は、何故あんな事をしたの」
「私が、何をしたの。何を……。それに、あのぼろ服の老爺は、妾を犬かなぞのように追っぱらったりして……」
「…………」
明三は、何か言おうとして、然し黙って彼女の眼を見つめた。彼女は、それを見ると、弱々しく彼の手を離して、二歩ばかり彼を離れた。然し、突然また彼に飛びついて、その胸に顔をあてて跪いて啜り泣きし出した。明三は、彼女の手を握った。そして、女から離れ去ろうとした。
「私は、私は、どこへでも行ってしまいます」
「どこへ……」
「誰も知らない所へでも……」
女は、投出されたように、地に跪いた。
彼は、悶え泣いている彼女の肩を抱いて、その髪に唇を接けた。
「じゃあ、さよなら」
彼は、苦悩に歪んだような顔をして、地に俯して泣いている彼女を遺して、家へ這入った。室へ這入って来た明三の顔を見ると菊子は、怖えたような微かな叫声を立てた。
「どうしたの、兄さん……」
彼は、耐えきれないように、床に俯してしまった。菊子は、彼を抱くようにして、その肩に手をあてて言った。
「どうしたの……」
「私をほっといっておくれ」
明三は、軀を震わせながら微かな声で言った。
「何故、何故兄さんは、そんな事を言うの……」
彼はもう何も答えないで、少女の手の中で啜り泣いた。