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第53節

 今、私の机の上には二三冊の新しい小説が載っている。
 それは私に取っては、全く知らない名であった。その教養から言っても、その経験から言っても、またその経て来た時代から言っても、私とは何等の交渉を持たず、何等の縁故をも持たず、何等の系統を持っていない作者の名であった。否、そればかりではなかった。私とその人達との間には、すでに度々新時代を隔てていた。そこにはもはや私達の受けたような硯友社や二葉亭や鷗外の何等の感化をも見出すことができなかった。
 前に書いた潤一郎、星湖、秋江あたりからも、すでに二度も三度も新しい時代が来ていた。新しい時代! 何といういい言葉だらう? 何といういい音だらう? そこには希望がかがやいているではないか。金色の光が眺められているではないか。新しい恋もあれば、新しい名もあるではないか。努力すればいかようにも酬いられて来る位置があるではないか。例え少しの不如意があったにしても、そうしたものは、その若さで、その力強さで、たちまち容易に一蹴し去って了うことができるではないか。
 かれ等はまだ時の何物であるかを知らないのであった。物の何物であるかをも知らないのであった。心の何物であるかをも知らないのであった。目的を達するということが、その希望したものを得るということが、恋を得るということが、名を得るということが、それが即ちその得たものを失って行く原ちなみになるということを知らないのであった。有の裏に無があり、得の後には損があり、楽の後には苦のあるのを知らないのであった。かれ等はただ驀地(まっしぐら)に進んだ。わき目も触らず(※原文ママ)に進んだ。その途中にある障害物という障害物は跳り越え飛び越えて進んだ。
 私にもそういう時代のあったことを思い起した。五百枚も六百枚もある作物を抱いて街頭を彷徨したことを思い起した。始めて活字になった時の嬉しさ、始めて本になった時の嬉しさを思い起した。
 私は机の上に置いてある本を引寄せた。その中には、山崎斌(※原文ママ。あきら)氏の『結婚』と坂本石創氏の『梅雨ばれ』と藤沢清造氏の『根津権現裏』と喜多村進氏の『靄』と伊藤靖氏の『発掘』とがあった。すべて知らない人達であった。世間にもこれから認められて行こうとするような人達であった。この他にも、そうした人達は沢山に沢山にあるらしかった。本に出したり、雑誌に出したりする人達も沢山にあるらしかった。しかし不幸にして、そういう人達の発表したものすべてを私は満遍なく読むことはできなかった。私は手近にあるものから読み出した。
 私はそれを読み尽すために数日を費した成るたけ詳しく読んで見たいと私は思った。そしてそこから私とそういう人達との距離をも知り、併せて私の位置をも知りたいと思った。そうした若い人達の生活や、心や、傾向や、そういうものをも知りたいと思った。
 あるいは言うであろう。若い人達を知りたいために、そういう種類の二三を読んだとて、それは徒労である。それにはもう少し傾向のはっきりしたものを読まなければ駄目である。現に、こういう本がある。ああいう作がある。かれはプロレタリアの作者である。かれは新しい宗教に得るところのある作家である。親鸞の影響を受けた作家である。こういう風に勧めてくれるであろう。そしてもっともつと沢山に読むことを勧めてくれるだろう。しかし私に取っては、そう沢山の本は要らないのである。傾向のある作は昔から私の取らないところのものである。私は純な二三冊を読めば足りるのである。
 プロレタリアの論議も仔細に研究すれば、面白いものに相違なかった。日本では四五年以来その声が喧しくなったが、外国では大戦以前から、そういうことは盛に論議されていたのであった。ゾラの作の後半は大抵その労資の色彩で塗られてあると言っていいくらいであった。ドイツのハウプトマンの『織匠』などでも、そういうことはかなり徹底的に書いてあったと私は覚えている。ゴルキイの小説がヨオロツパを動かしたのも、まだ私が三十六七ぐらいの時であった。しかし、文芸では、そういう論議は単に色彩として気分として感じとして入って来るだけで──また題材として入って来るだけで、あまりにその傾向に偏りすぎるということは、決していいこととは思われなかった。しかしプロレタリアの群の中から、すぐれた作者が出て来るということは、それは非常にいいことだと私は思った。今までは日本の社会は中流階級、即ち昔の武士の階級や学者の階級や金持の階級で支配されて来たので、何うしてもそういう教養を受けたものから多く作者が出て行ったが、現に私などもその一人だが、明治の末から大正にかけては、次第に貴族階級が覚醒し、そこに生ひ立った若い人達が奮い立って、例の『白樺』の運動などが始まったのであった。そしてそこに生い立った人達は、現に作家として、立派に文壇に出ているのであるが、それと同じように、プロレタリアの中から、そうした気運が動いて、その階級のさまざまな光景や、心や、悲劇や、問題や、運命や、争闘や、死や、恋や、そうしたものを描き出して来るものがでてきたなら、それこそ始めて日本の文壇は、世界の何処の国に比べても劣らないような複雑味を出して来るであろうと思われた。私はそれを心から願うひとりであった。
 しかし、日本の今の状態では、まだそれほど進んで行っていないのではないか。まだそれほどプロレタリアが動いて来ているのではないのではないか。本や雑誌で外国の思想や状態を受け入れた知識階級の人達が、先きに立って騒ぎ立っているのではないか。もちろん、その先きに立って騒ぎ立てるのを私はわるいとは思っていなかった。それはそこから何等かの新しい芽の出て来るのを私は知っているからであった。私は一日も早く、その芽が生い立って、外国の借物でない本当の芽が生ひ立って、立派な芸術がプロレタリアの群から出て来ることを待たずにはいられなかった。『死線を越えて』という作があったが、あれはあまりに芸術に遠い作であった。
 まア、しかし、そういうことは暫らく措くとして、私は私の読んだ二三の本について少しくここに言って見る時期に到達した。
 私は前に挙げた作物の中では、『根津権現裏』という作は、やはり Ich-Roman(※イッヒ・ロマン。『若きウェルテルの悩み』のような一人称の体験生活小説形式) ではあるが、私達の書いたものとは全く形を異にし、趣を異にし、感じを異にしているのを発見した。教養も丸で異っていた。あるいは岩野泡鳴に脈を引いていると言えば言えるかも知れないが、しかし泡鳴よりはぐっと細かく且つ神経過敏にきばりとしたところがあった。ドストイエフスキイの感化もいくらかはあるらしかったが、それも決してわるい方ではなく、思うところへと一直線に真直に進んで行ったていた。コンポジシヨンにも一元的な、すっきりとした、たとえて見れば矢を空間に放ったような快さがあった。
 わざと周囲を書かなかったらしいのも、天然に対して全く目を閉じているらしいのも、当気や色気の少しもないのも、すべて快い感じを私に与えた。作者は人に読ませようなどとは、少しも考えていないのであった。これだけすぐれた筆を持っていて、何うして不平を言うのか。何うして世に認められないことなどを情けなく思うのか。この筆だけでもすでに立派な天与のものではなかったか? 私はこう思わずにはいられなかった。
『梅雨晴れ』も達者な筆だった。細かく細かく、心理的に書こうとした作者の意図もはっきりとよくわかった。やはり『根津権現裏』と同じように、周囲を書かず、天然を書かず、また個々の性格にすら大して重きを置かないような形を示していた。私達のやったものとは全く異ったところに目をつけているのを私は発見した。やはり、筆は自由で、単純で、何処からも影響を受けたような形は見当らなかった。
 それに、性欲の描写も上手であった。その圧迫に堪えずに、遊び友達を理由なしになぐるあたりはことに心理的であるのを感じた。しかし結末はわるかった。何うしてあんなことを書いたか、何の必要があってああした性欲の細かい描写を敢てしたか。それはあれがなければ結末がつかないようなものであったらうけれども、もう少し何うにかなりそうに私には思えた。あるいはあの先きをもつと長く長く書かなければならないものであったかも知れなかった。
『結婚』はこれ等の作に比べると、著しくロマンチツクであることが眼に付いた。決して前の二つの作のように無記ではなかった。私達時代の遠い影響すらもあるような気がした。それはあまりに小説になり過ぎていた。ドイツのズウデルマンの小説でも読んでいるような気がした。従って真に迫るとふ程度において著しく欠けている。ヒロインのああした心持にも個性の描写があるとは思われなかった。しかし、巧みなことは飽までも巧みであった。二十八九や、三十ぐらいの時に、私達はとてもああした作を書くことはできなかった。そうした作に比べて、私の『重右衛門の最後』だの、島崎君の『うたたね』だのの幼稚であったことよ。
『靄』もやはりロマンチシストの作と言って好かった。それに、この作には昔の影響が非常に多かった。島崎君の影響などもかなりにあるようであった。しかし、ああした作としては、追憶の作としては、作者に取って捨て難いものであったに相違なかった。私も二十八九の時に『ふる郷』というのを書いたが──それは拙劣で、今ではとても見られないものであるが、『靄』に比べて言ったりしてはすまないようなものではあるが、作をした動機においては、両者互いに共通したところがあるのを私は感じた。私は何とも言われないなつかしさを感じた。それに全体の感じが上品で、『梅雨ばれ』などと比べて、流石に昔の士族のあとの家庭が偲ばれた。
『発掘』は前の諸作に比べて、著しくあら削であった。書き方もブツキラ棒である。とても『根津権現裏』のような、ああした細かさをそこに発見することはできなかった。しかしそれだけ一方に強さがあった。東北地方の原始的気分があった。しかし母親と主人公の関係などは、もう少し細かく入って行かなければならないのではないか。
 まア、しかし批評は別として、とにかく、そうした若い人達の作品に接して見たということが私には嬉しかった。私は再びそこに恋に苦しみ、芸術に苦しみ、生活に苦しみ、その自分を取り巻いた周囲の空気に苦しんでいる私を発見したような気がした。そうした若い人達の作の中にも私というものが生きているということをじっと私は見詰めたのであった。
 私はいろいろなことを思い起した。水道橋から本郷台を通って、島崎君の大根畑の家に出かけて行ったことを思い出した。図書館からあの東照宮の階段を下りて、不忍池をぐるりと大学前の方へとでてきたことを思い出した。団子坂上の鷗外氏の大きな邸宅を外からのぞいて通って行ったことを思い出した。博文館の応接間に原稿を持って行く惨めさを思い出した。否、そればかりではなかった。そこにもここにも私がいた。髪の毛を長くして、絶えず性欲に悶えながら、常に物質の乏しいのに苦しんでいる私がいた。上からも下からも、また周囲からも散々に圧迫されて、全く手も足も出なくなって了った私がいた。狭い一間に閉じ篭つて、金にもなるかならないかわからないような原稿をせっせと書いている私がいた。
 私はその私を今の私に引較べて考えて見ずにはいられなかった。