血の呻き 上篇(2)
二
瘠せこけた、冷たい指が彼の顔をつついた。
「何だ」
明三は、恐ろしく不機嫌な渋面をして眼を覚した。妙な格好をした宿の老婆が、そこに立っていた。夜が明けて、懶げな光りがどこかの破目から、流れ込んでいた。
「何だ」
「お前さんは、長く泊るのかい。それとも……」
「よく解らない。行くまでいるよ」
「ふうむ。所で、名前を思い出したかい」
明三は彼女の出した鉛筆の屑で、紙片へ書きつけた。
布片で包まれた黄色ぽい、腫れたような顔に、死にかかった蛇のような灰色な忌わしい眼が粘っていた。
「お前さんは、何か私に用事がないかね」
老婆は、探るような眼をして訊ねた。
「ないよ。何も」
「ふうむ。そうかね」
彼女は、顔を歪めて、薄笑いして出て行った。
明三は、南京米嚢の壁の穴に這い寄って隣室を覗いてみた。灰色の腮髯を生やした、五十位いのやせこけた老人はその薄禿げの頭を床に押つけて、蜘蛛かなぞのように円く跼まって眠っていた。
娘は、──その女はまだ十七位いであった。──半ば起き上って壁に靠れていた。明三は、その顔にじいっと見入って、わなわなと胸を慄わした。
誰か暗い地面で、日の光りも吸えないで滅びて行く、蒼ざめた草の病葉を見たことだろう。その人にはその娘の顔色が、思い泛べられる。彼女は、そんな顔色で、暗い壁の下に吸着いていたのだ。地上の生物らしくない、怪しい暗い蔭影を含んだ眼が、瞬きもしないで彼が潜んでいる破れた壁の方を見ていた。彼はその娘の顔を何処かで見た懐かしいもののように思った。然しそれが何処であったものかいくら考えても思い出せなかった。それは、彼が永い間自分の胸の中にひそかに抱いていた、幻の女の顔であったのかも知れない。彼の心の底で何か宿命的な懐かしさが、その幻の女の顔を索ねもとめていたのかも知れない。
明三は、吸いよせられるように、じっとその眼に見入って、身慄いした。その悩ましい熱に震えている病的な瞳は、オルトフォルソの滴(※)のように、彼の頭に悩ましく滲みた。
衰えた虞美人草の花弁のような唇が、痛々しい呼吸をして慄えている。草の葉のように瘠せた両手を、胸の上に組合せているのだ。その傷ましい美しい顔は、明三の心を戦かせた。彼は、哀しみに耐えないように、心が重苦しくなって来た。何か怪しい恐怖に似たものがその心を襲って怯かした。彼は、深い嘆息をした。そして、冷やかに、自分を嘲笑おうとしたが、その笑は苦しい呻きのように、顔を歪めさせた。
明三は、負いきれないような、深い悩みに魘われて、その壁の破れ目を離れた。そして、長い間胸の上に頭を垂れていたが、軈て立上って室を出て行った。
「誰だ。お前は……」
そこの道路に立っていた、黄色い痘面の小男が、彼に声をかけた。
「何です。あの人は」
明三は、この知らない男にひそひそ声で咡いた。
「靴修繕師、小林幸七」
その男は、両手で自分の頭を持上げるようにしながら、言った。
「それは、誰の事です」
「俺さ」
明三は懶げに笑った。小男の靴修繕師も笑いながら喚いた。
「俺なら、おかしいのかい」
「私はあの、女の、……ほらこの室の娘のことを、聞いたんですよ」
「ふうむ。獣奴! もう見つけて覘ってやがる。自分で聞いて見るがいいさ」
靴屋は、笑いながら一つ明三の肩を叩いて自分の室へ行ってしまった。
明三は、唇を嚙んでそこを離れた。そして、深く考え込んで呻くような溜息をついて、そこらをうろついた。
「ふん、つまらない事だ」
彼は、冷笑った。そして、つけたして自分に小言を言った。
併し、執拗に怪しい想念はつきまとって、絞首架の締縄のように、哀れな心をしめつけた。
彼は、悩ましげに俯れて、宿の老婆の所へやって行った。彼女は、入口の扉の片隅の所に、石油の空箱をつみ重ねて囲った不思議な室を造って住っていた。その箱が、彼女の総ての所有品を容れる所で、片隅には、壊れかかった大きな、彼女の寝る為に便われる、煙草の空箱が横たわっていた。老婆は薄暗いその隅の方に踞まって、指を折って何か数えながら、眩いていた。
彼は、その空箱の室には入って訊ねた。
「あのね、………」
「ふふ、お前さんさっきのことが解ったかね。ほら何か用事がないかって聞いたのに……」
陰気な、土の底にいる虫かなぞのような眼をして老婆は薄笑いして言った。
「あの娘は、あれは何ですね」
「賭博師の娘さ。雪子って……。いずれ死ぬだろう」
「病気……?」
「そうだよ。あれが何うしたい」
明三は、黙ってそこを出て来た。彼は、恐ろしく不快だった。老婆の忌わしい眼が、蜘蛛かなぞのように、粘々した触角で探りながら、彼の頭の中を這いまわるような気がした。
何か陽光に見付からないように、箱の中に頭をさし入れて、跼まって隠れている、この薄気味悪い生物は、きっと暗がりであの壁の下の哀れな花に、その黒い唇から毒の息吹でもふきかけるのでもあろう。
彼は、衣嚢から皺くちゃになった、書きかけた原稿を出して、何か書き出そうとしたが、些しも書く事が出来なかった。ほんの二行ばかり書きつけては、それを消してしまった。そして、前に書いた所をぼんやり読んでいたが、それもめちゃめちゃに抹消してしまって、終いには苦しげに呻きながら、それを投出してしまった。
また、あの壁の破目に蹲まった。娘の室には、小さな壊れた窓から、埃ぽい日光が流れ込んでいた。悩ましい光りの流れは、彼女の生命を蝕うもののように、その胸の上に縋わりついていた。彼女は、眼を閉じて両手を胸の上に置いて、苦しげな息づかいをしていた。ひどくすりきれて補綴だらけになったフロックを着た、老い疲れた人は、うとうとしている彼女の顔をぼんやり見つめながら、その枕許に踞まって陰鬱な顔をしていた。そして、愁わしげに何か自分だけの物思いに沈んでいるのだった。
娘は、微かに軀を動かした。老人は、彼女の側に躪り寄って、顔の触れあう程もすりよせて、その顔を覗き込んだ。そして、そっと慄える手で彼女の手を握って、その指に唇をつけた。
娘は、眼を睜いて、微笑した。老人は、若者のようにひどく慌てて、併し寂しい微笑をして彼女を見た。明三は、惨めな顔をしてふらふらと、そこを離れた。まるで熱病でも煩っているように、わなわなと慄えて、何か物に躓きながら通路に歩み出た。その胸は、炎のように顫えた。
「おい……」
靴修繕師が、どこかから出て来て突然彼の肘に触った。
「どうした」
「困ったよ」
明三は、その男の顔を見もしないで溜息のように沈んだ声で答えた。
「宿賃は……」
「払った」
「食物は……」
「ない、がその事じゃない」
「じゃあ、その外に何が困るんだ。俺は、もう十日も払わないんだが、ちっとも困っちゃいない」
彼は、一杯引かけたらしく、勇敢に喚き立てた。
「あの老人は……」
「ふうむ。ボロックか……」
「何だい」
「ぼろのフロックの事だろう」
「そう、そう。あれは…………何をする人なの……」
「あれは、医者だよ。俺等の博士だ。今は、薬をこしらえて、売ってるんだが……」
「此所にいるのかい」
「此所に……。然うさ。その外に、彼奴に、どんな居所が残されてるんだい」
靴修繕師は、下唇を甜めて呟いた。
「いい医者なんだが……。唯自分の病気が解らないんだ。困った事だ。あの人は、あの娘の事で気が狂ってるんだ」
彼は、自分の額を指して笑い出したが、急に真面目くさって、明三の顔を覗き込んだ。
明三は、痺れたような惨めな顔をして、彼を見ていた。
「可哀想に……。お前が手を出してはいけない。あれは、死にかかっている。あの娘は……。いいかね。女は、安くて美いのが、どっさり他所にころがってるんだ」
そして、靴修繕師はまた、何か考え深そうに黙っていてから、言った。
「それに、そんな人じゃないよ、お前は。俺は、そう思う」
「何故、そんな人であっちゃ悪いんだ」
明三は、腹立しげにそこを歩み去った。
明三は、居酒屋へ行って全財産だけのウヰスキーを呷ってしまって、声を立てて泣きたいような気で、長い間街を彷徨いていた。彼は自分の宿賃と食物の代を得る為の仕事を見つけようとさえしなかった。そして、また、疲れた足を曳きずって午後になってから、宿へ帰って来た。泊り客等は、誰も残っていなかった。
皆、自分等の仕事の為に出て行ってしまったのだ。
彼女の室の黒い襤褸布の帷がかかげられて、彼女は枕に頭をつけて物思わしげに薄暗い通路の方にぼんやり視線を向けていた。明三は、痺れたように立止った。そして、烘きつくような眼で、彼女の眼を見た。
彼女は、ぶるぶると身慄いして、眼を睜らいて、彼の顔に見入った。
明三は、恐ろしく乱れた心でそこを離れ去った。壁の下に背を靠せていた老医師の瞳は、錆びた針のように惨酷に彼の胸を刺した。彼は憎みを含んだその瞳を見た刹那耐えがたい哀愁に襲われた。それは実に奇異な感情であった。そして、その針のような視線を、背中に感じながら彼は自分の室の中へ力なく歩いて行って、そこへ俯した。
何かの、恐ろしい爪で頭の中をかき挘られるように、想いは混乱した。そして、床の上に自分の体を横たえて、悶えながら、疲れはてて眠入ってしまったのだった。
──暗がりの中で、あの痛々しい美しい眼は、彼の顔に近づいて来る。娘は、その美しい顔をすりよせてその青い瘠せた手で、彼の頸を抱くのだ。彼は、恐ろしく痛む頭を彼女の胸に押あてて、眼に涙をためて慄えながら、その眼に見入る。そして、訴えるように唇を顫したが、何も言う事が出来ないで、涙が流れ出た。女はその花弁のような唇を、彼の耳にあてて何か咡く。その言葉が何なのか些しも解らなかったが、彼は、肯きながら、啜り泣いた。
息づまるような、苦悩の罠もない。憊れはてた、苦々しい絶望もない。嬰児のような心で、啜り泣いているのだ。娘も、その重い額を悩ましげに彼の頸に押あてて、欷歔いている。
そこは、地の上らしくもなく、白い芙蓉のような花が咲き乱れて、二人を取り巻いていた。突然に、何か蜘蛛のような不気味な生物が、何所かから這い出して来た。それは不格好に、恐ろしい大きな禿げた頭をした奇怪な生物で、彼等の方へ、その恐ろしい棘だらけの瘠せこけた手をさしのべて、尖った爪を立てようとするのだ。
女は、叫び声をあげて、飛びあがった。──
彼は、低い呻き声を立てて、眼を醒した。そして、暗い冷めたい床の上に全二日も、飯も食べないで、唯一人で寝ている自分を見出した。四辺は、柩の中のようにひっそりしていた。彼は、その中で微かに慄える、苦しげな娘の呼吸の音を聞き取った。それは、喘ぐような弱々しい音を立てながら、暗がりから這い寄って来るように思われた。
そのきれぎれな、低い呼吸の一息毎に、明三は何か物に襲われでもしたように身慄いした。消えかかった薄光りの下に、彼女は眼を据えて彼のひそんでいる壁の方をみつめていた。この吊された壁の隅に踞まっている老人は、喘息病みのように呻いて眠っていた。
明三は、実に長い間息を凝して、凍えたようになった破目から女に見入っていた。そして、またそのまま床に頭を垂れて寝入ってしまったのであった。
次の日も、彼はその室の前の通路をうろついていた。すると、そのフロックの老医師が愁わしげな顔をして出て来た。
「貴方は、何ですか。その……」。
明三は、彼の顔をまじまじと見まもった。
「私は、……」
併し、その刹那に娘は低く呻いた。彼は、彼女を見た。彼女は、燃えるような眼をして、彼に見入っていた。
彼は、その時始めて、その女を思い出した。彼女は、俯して、何かきれぎれに訳の解らない事を呟いた。
彼女は、耐えられないように眼を閉ったが、また熱にでも襲われたように戦慄して、眼を睜いて彼に見入った。明三は、ひどく乱れた想念に顔を曇らせながら、その前に膝を着いた。老医師は、両手を振って呻いていたが、耐えきれなくなったように、明三の肘へ触ってそこから連れ出した。そして、彼は両手で此若者の肩を激しく摑んで、慄える声で恐ろしい早口に吃りながら言った。
「貴方は、何ですか。貴方は……」
「何でも、ないんです」
「いいや、あの眼は、あれは……、何だって、あなたは、そんなに覗くんです……」
彼は、哀しげに語尾を慄わして言った。
「あの女は、死にかかっているんですよ。私はもう、こんな泥濘へ陥り込んだ人間ですが。……せめてあの娘を死からとり離したいと、そればかりを望みに、生きているのです。若し、貴方が、そんな人間でないのなら、此事だけは妨げないでください」
彼は、吃りながら咽び泣くような声で言って顔を反けた、明三は、力ない声で呟いた。
「何を、貴方は……」
そして暗い顔をしてそこを離れて、出口まで来た時、彼は自分にも不可解な、不気味な薄笑いを洩した。
彼は、道を歩きながらも、幾度も立止って、瘧病み(※発熱と悪寒を繰り返す症状)のように胴慄いして、独言をした。彼は、遂に手を組んで、頭を深く胸の上に垂れて、歩いて行った。
明三は、或死火山の北蔭の、日光もろくにあたらないような、薄暗い峡谷の底にあるK町で育った。そこでは、この山麓の高原の街々や部落を風に体を委ねて漂泊く木の葉のような世間師(※)等の群を相手に、彼の祖父が唯一人で木賃宿を営んでいた。
彼は、どこで生れたのか、父と母が誰であるのかも知らなかった。その年老いた祖父の胸の中で、訳の解らない、子守唄を聞きながら生い立った。
そして、十六の年の春に、自分の左の手を、僅かばかりの価いで、ある年上の女の恋を争っていた相手に売渡してしまった。
彼は、血みどろになって、暗い工場の地下室の、調革の中からひき出された。
彼は、全一年も、薄暗い病院の寝台の上に、屍のように横たわっていた。そして、何かの悪業で死にきれない、体を抱えて、光の中へ這い出して来た。
噛み破られ血を啜られた肉体と、かき挘られた心とで……。彼は、すっかり陰欝に沈黙てしまった。
祖父は、その為に所有の総てを棒に振ってしまった。そしてほんとうの漂泊者の仲間として、この高原の部落をまわり歩く仕事を始めていた。彼の手に、二枚の拾圓紙幣が渡された。それが、此男の唯一人の孫の、霊と片腕との価であった。彼は、唇を喰いしばって相手の顔を見たが、一言も言わなかった。
明三は、病院からすぐに、神の僕としてB市の、あるロシア人のいる、教会へ行った。然し、二年の後には、故郷の町に帰って、ある寺院の老僧に就て得度をうけて、仏の子となった。
彼は、その間に僅かばかりの、文芸上の立脚地を得たが、そこへ来た三年目の終りの頃、ロシア人を中心にするある社会運動の秘密結社に関係のある者として、そこを追われた。
彼は、方々の都市で、小さな新聞の仕事をしたり、種々な寺院を渡り歩いたりして、終に北海道を逃れ出た。
そして、風に軀を委ねる放浪者の群には入って、いろんな世間師等の仕事をした末、とど(※とどのつまりの略 結局)S市である小さな曲馬団の歌手として雇われた。
彼女は、そのK曲馬団で、エリナと称ばれていた、馬つかいで、その群の中で果てもない漂浪の日を送っている娘であった。
明三の頭には、その時A市で興行中起ったある場面が、幻のように湧き上って来た。
舞台は、総ての光りを取り去られて暗くされていた。明三は、慄える燭灯を掲げて、そこに立った。青ざめた小さい光りに、恐ろしい程の無数の人間の視線が、暗い観客席から光った。
エリナは、その微かな光りの下に跪いて、自分の胸の中に怜悧な仔馬の首を抱いて、その鬣を撫でて寝せつけた。明三は、沈んだ弱音でその馬の為に、小唄を歌った。
その時突然天幕の支柱の一本の螺旋が折れて、彼女の上に倒れ懸った。
烈しい物音と弱々しい叫声がして、唯一つの小さな燭灯は、闇の唇の底に吸い込まれてしまった。
何時もの嵐のような賞讃と拍手との代りに、怖えたような叫声と、恐ろしい混乱の喚声とが暗がりから渦巻いて湧き上った。
慌しく、電灯は灯された。
舞台の上では、仔馬は脅かされたように片隅に踞まっていた。エリナは気絶してそこに倒れ、明三は釘のように突立って、喪心したように眼を睜いていた。
不幸な馬使いは、その左の胸の二本の肋骨を挫折してしまったのだった。彼女は、気絶したまま、担架で病院へ運ばれた。
その二日目に曲馬団は、彼女をそこへ残してまた旅へ出た。
然し明三も、その後二箇月よりこの人々の群の中にいなかった。彼は、北海道の東の果ての、A町の小さな寺院へ行く事になって、北国のN市でその曲馬団に別れた。
エリナに就ては、辛うじてその傷痍が癒えた時、重い肋膜炎に冒されて、再びその暗い病室の壁の下から起ち上る事が出来なくなってしまったと言う事を聞いただけだった。
深く自分ひとりの哀愁に乱れていた明三は、彼女の姿を、自分の心に印して置くことさえ能わなかったのだ。
A町──それは、何時も薄暗い霧に閉されている、オホツク沿岸の、死の海のような暗い灰色の湖に囲繞された、寂しい小都市である──にも、彼は唯半年いただけであった。この生れ落ちた浮浪の子には、地のどんな静かな片隅も、その心を沈めてはくれなかった。
彼はまた塒を忘れた、鳥のような漂浪の暮しに戻った。
彼は、それから到る所の町々で下水掃除にも、薪運びにも、雇われた。彼の軀で出来る、あらゆる惨めな労働に従った。
零落れた歌本売りの、唱い手にも雇われた。Kの町では、重い振鈴を振って夜通し街を歩きまわる夜警の仕事もした。
旅役者のビラ書きもした。辻占売りもした。
二日も何も食べないで、路の上に寝ていた事もあった。
そして、到る所で人間の群から浮浪犬のように掃出されながら、自分を地の上から追い出してしまった惨めな思想と、霊までも嚙み破った暗い絶望的な、不可解な困憊とを背負って、風に軀を委ねて漂泊歩いた末に、この北海道の南の果ての、B市に流れて来たのだった。──
今、併し彼女の顔には、あの仔馬の首に手を捲いて微笑んだエリナの微かな影さえも、見られなかった。生れ落ちた時から脊負っていた、惨めな労苦に疲れ果てでもしたような、暗い陰影が憑いている。それが、彼女の貌まで変えてしまったのだ。長い長い間、暗い牢獄の壁の下にでも咲いていた花のような、憊れた、恐怖に襲われるような美しさだった。
「然し、彼女だ……。彼女に違いない」
明三は、戦慄して呟いた。
その時、突然に彼の前に、小男の靴修繕師が現れた。
小林は、立止って笑いながら、手に持っていた焼酎の瓶を、彼にさし延べた。彼は、靴修繕師の顔を見た。そしてにやにや笑いながら、それを手に取って振ってみた。瓶には些しばかり飲残しがあった。明三は口うつしに、飲み干してしまった。
小林は空瓶を受取って、日に透して見ていたが、それを力任せに道の石ころに叩きつけた。飴色の硝子の破片は、鋭くぎらぎらと悪意を持っているように光った。
「お前は、どこをうろついてたんだ。兄弟!」
「仕事をみつけに……」
「ふうむ。そして、あったかい」
「ああ」
「何の仕事だ。商売か……」
「然うだ」
「そうか、まあ確りやる事だ。それにあの娘は、骨が柔かいから、すっかり叩けば、ソップ(※スープ)もうまいよ。皆食うにいいんだ。ふん」
そして、一つ指を弾いて彼を残して行ってしまった。
明三は、ぼんやりその後姿を見詰めていたが、軈てまた頭を垂れてのろくさと歩きはじめた。彼はB町の或辻で、緑色のペンで書いた辻ビラを張った電柱の所で立止った。
『弟子逃亡につき、助手二名雇う。大石美術看板製作所』
明三は、それをじろじろ見つめていたが、怪しい薄笑いを浮べてその扉を開け放した空屋のような、看板店へは入って行った。
仕事場では、奇怪な銅の壺かなぞのような変な格好の禿頭の真中に、一房の灰色な痙毛(※刷毛)を立てた老爺が、唯一人で何か口小言を言いながらのろくさとペンキを溶していた。
明三は、そこで何もかもうまくやってのけた。
美術学校で、油の方を専門にやったし図案意匠は勿論、それに字なら篆字や隷書と来たらそれこそ……。と言った具合に。そして、そこで仕事にありついたのだった。
彼がそして、毒々しい暗赤を使って、花屋の看板に曼珠沙華を描いている所へ、縮毛をもじゃもじゃさせた、恐ろしく軀幹の高い、三十位いの真黒な顔をした男が黙っては入って来た。
そして、黙りこくったまま明三の描いている花を見ていたが、軈て恐ろしい横柄な口調で、老爺に話しかけた。
「人を雇うてのは、此処かい」
「そうだよ」
「で、逃げたてのは、誰だい」
「弟子と、嬶だよ」
「弟子のかい」
「うんにゃ、俺のだよ」
老爺は、顰面をして呟いた。
「ふうむ、無理もない。弟子はそんな奇怪な禿頭もしていまいし、若いだろうからね」
長軀漢は、感慨深そうに言った。
明三は、失笑してその男を見返った。老爺は、腹立たしげに尖った声で言った。
「それが、お前の用事かい」
「いや、僕は雇われたいと思って来たんだ」
「雇われたい……? 俺にかい……」
老爺は、目を見張った。
「無論さ、人を雇うてのは、君だろう」
「然うさ。併しそんな雇人てものがあるものかね」
「此所にあるよ。所で、君はいくら払うんだい」
「然しお前は、この仕事をした事があるのかい。どれ程の腕があるんだい」
老爺は、蔑むような眼で、この破れ服の横柄な男を見まもった。
「仕事……? 僕は、こんな下らない事をした事がないが、美術学校を卒業したんだ」
「へえ。美術学校………? ほら、この人も然うだよ。藤田って言う……」
老爺は、明三を指した。その男は、困惑したように明三を見ていたが、何か妙な瞬きをしながら、薄笑いしてから、急に彼の腕を摑んで驚ろいたような声を立てた。
「やあ……。藤田君ですか。どうもさっきからよく似た人だと思っていたんですよ。どうもお互にひどい所へ、落ち込んで来たものですね。僕、井口です」
「ああ、井口君ですか。暫らく……。ほんとうに、お互惨めな有様です」
彼等は、顔を見合して哄笑った。
「何だ。昔の友だちかい」
親爺(※老爺の表記ゆれ。同じ人物)は、人の良い微笑をした。
然し明三には、これがどんな井口なんだか、遂ぞ見た事もない男だった。
「然し、我々の芸術と労力とを、君はその日その日に買う事にしたらどうかね」
井口はまた、親爺に話しかけた。
「へえ」
親爺は、不可解な顔をした。
「つまり日払いて奴にさ」
「ふうむ。それもよかろう」
そして彼等は、日が暮れてから、その「芸術」と「労力」とを売飛ばした金を摑んで戸外へ出た。
「あなたは、その……美術学校を出たんですか」
その男は、暗いO町の通りへ来ると明三に言葉をかけた。
「なあに……、あすこに、ほんの些しの間いたんです」
彼は、何か外の物思いに沈みながら言った。
「ふうむ。さすがの僕もさっきは、冷っとしましたね。貴所も、中々いい俳優ですよ。いや僕も、美術学校へは入り度いと思った事もあったんです。十年も前には……。然し、今は船の底や煙筒を塗りながら、食物と警察とに追い立てられて歩いてるんです。然し、今あなたは何所に……」
「S町の掃溜めに」
明三は、憂わしげに答えた。
「ふうむ。僕は、B町のN漁業会社の倉庫にいるんです」
美術学校は、自分を嘲るように笑った。
「じゃあ明日はまた……。然しあなたは、ひどく黙った沈んだ人間ですね。さよなら」
そして二人は別れた。
明三は、急ぎ足に宿へ帰って来た。
彼は盗人のように怯々しながらそっと忍足に暗い自分の室へ潜り込んだ。電灯のある広い室では、叫声をあげて、誰かが言い争っていた。
「どうして、悪いんだ」
「そんな、そんな貴様、格好というものがあるか」
誰かの声が吃りながら叫んだ。
「あるよ」
「何だと! 脱いでしまえ」
恐ろしく凸額の、青銅の壺の底に落込んだような眼をした巡査が指の破れた手嚢をはめた手を、振りまわして呶鳴っているのだった。実に奇妙な風態をした、もう六十に近い、枯枝のように瘦せた磨師が、三歩ばかり離れて立っていた。その顔は宛然、汚ない木彫かなぞのような乾いた灰色をして、茫々と伸びた灰色の頭髪も、垂れ下った髯も、商売のバリカンや、鋏の切味を試す為に蝕われたように、剃り落されていた。穴だらけの古い洋傘の張布を真中に穴をあけて、首を通してマンテリヤ(※)のように肩にかけ、両腕にはぼろぼろなメリヤスシャツの袖を紐で縛りつけて、腰には紫色の洋傘の張布のつぎ合せた奇妙なものを、捲きつけているのだ。
「脱いでしまえ。白痴め! 何だってそんな風をしてるんだ!」
巡査は、も一度吼え立てた。磨屋はぶつくさ呟きながらその腰に捲いたものを取りはずした。瘠せこけた、枯枝のような二本の脚が露出された。それから渋々その特製のマンテリヤも脱いでしまってそこへ坐り込んだ。巡査は、また吼え出した。
「何だ、貴様! 裸になぞなって着物を着ろ! 着物を……」
「何てい話だ」
磨師はまた口小言を言いながら、そのマンテリヤを着はじめた。
「着物というのに、そんなものでない着物を……」
「どんな着物を……」
「どんなって、……着物が解らないのか貴様! 馬鹿め!」
「解ってるから、着てるのに、何だい……」
磨師はぶつくさ呟きながら溜息をした。
「それでない着物を……」
「この外に、俺にどんな着物があるんだ。ふん」
巡査は、物凄い顔をして彼を見ていて、呻り出した。
「それが、着物か、貴様の……」
そして、何か訳の解らない独言を言って、行ってしまった。明三は、苦笑いをしながら帰って来た。
ひそひそと、何か恐ろしい陰謀でも企んでいるような咡きの声が、娘の室から洩れて来た。彼は、息を殺して壁の破目に這いよってみたが、彼女の室は唯坑のように暗くて、何物をも見る事が出来なかった。彼は胸を慄わせながら、耳を澄した。
「あれはね、……あれは……傷ついた、翼の折れた鷲よ」
娘の声のようであった。すぐに、ほんの十ばかりの少女の声がした。
「どうして……」
長い間、また寂然して、娘の痛々しい呼吸の音が聞えた。
「遠い、果てもない空の事を考えているの……」
「そう。そして、それっきり声が断えてしまった。彼は、あの沈んだ愁わしげな老医師の声がするかと思って長い間耳を澄していたが、遂ぞその吐息の音も聞えなかった。
「わたしは、その、時から……」
声がとぎれると、微かな啜り泣きが聞えた。
「あら、姉さん泣いてるの……」
明三は、その話の意味を知ろうとして身を悶えた。然し、何の事なのかそれっきり、一語も聞えなかった。彼は、終いには腹だたしいような気で、そこに寝ころんでしまった。そして、訳も解らない憂愁に、襲われながら、寝入ってしまったのだった。