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第9節

 鷗外と二葉亭の翻訳が当時の文学青年を益したことは一通りではなかったが、苟くも新しい文学に志すものは、皆なそれに向って走って行った形であったが、しかしその影響においては、両者各々異るところを持っていた。
 鷗外の態度には、学者らしいところがあった。かれはいろいろなことを知っていた。当時の文壇には過寛の衣であると言われるほどそれほどいろいろな知識に富んでいた。水沫集一巻を見ても、いかにかれが学者であったかということがわかるくらいである。かれは写実主義の文学を紹介すると同時に、理想主義の文学をも紹介した。一方にゾラの実験小説の理を示すと共に、一方にアンデルセンの作品を翻訳した。レツシング(※ドイツの詩人、思想家)もあれば、クライスト(※ドイツの劇作家)もある。オシユツプ・シユヒン(※ドイツの女流作家、オシップ・シュービン)もある。アルフォンス・ドオデエ(※フランスの小説家、『アルルの女』)もある。ハルトマン(※ニコライ。ドイツの哲学者)の美学の翻訳があれば、フオルケルト(※ヨハネス、ドイツの哲学者)の新しい審美説もある。すべてあらゆるものが取入れられてある。新しい作者で、めずらしくさえあれば、そのまま持って来てそれをわが文壇に示して見せると言った形もある。つまり紹介の為方が客観的でそして外面的である。だから、かれの翻訳からかれの主義主張を発見することはできなかったと言って好かった。かれの翻訳だけ見たのでは、彼が理想主義者であるか、写実主義者であるか、はたまた自然主義者であるか、それともまた象徴主義者であるかはっきりわからなかった。あれもいいし、これもいいという風であった。何処にも長所があり弱点があるという風だった。恐らくこれがかれのかれたるゆえんで、またかれの飽まで学者らしい態度を最後まで持したゆえんであろう。更に言い換えれば、それがかれの性格で、教養で、また学問であったであろう。かれは決して二葉亭のように実行と芸術とを考えるようなことはなかったであろう。芸術に行こうか、実行に行こうかと煩悶したりなどしなかったであろう。飽まで客観的な学者らしい態度を持することをいいとしたであろう。そこに、かれの翻訳の影響と二葉亭の翻訳の影響との差異がある。截然としてある。
 従って鷗外の方からは、知識を得ることはできたが、深い主観的方面の感想を得ることはできなかった。それに反して、二葉亭からは、ひろくいろいろなことを知ることはできなかったけれども、深く入って行くある気分を得ることができた。鷗外からはそういう思潮は得られたが、それが何ういう風に実際と触れているかとういう点までは、深く入って行くことができなかった。
 であるから、二葉亭に取っては、明治の文壇に馳駆するということなどは、丸で念頭に置いていなかったに相違なかった。そんなことは何うでも好かった。もっともっと大切なことがあった。鷗外が『しがらみ草紙』や『めざまし草』でやったようなことには、二葉亭は振向いて見ようともしなかった。