血の呻き 中篇(20)

         三六

 人々が、寝る頃になってから、時子は暗い壁の下、めいぞうの寝床の所へやって来た。彼女があんな恐ろしい刑をうける前だったら、そんな事をしたら、それこそ事件なのだが、その時は、どの監視者も彼女をかまわなかった。彼女は、青ざめた顔をして、何か深い物思いにでも沈んでいるように、黙っていた。
「どうしたの」
 明三は、おびえたように彼女を見てたずねた。
「私……。おかしいと思うの」
 女は、きれぎれに、彼の眼に見入りながら言った。
「何……」
「幽霊てものが、あるだろうか……」
 女は、沈んだ声で言い出した。
「幽霊……? 何だって、そんな事を聞くの……」
 明三は、彼女をじろじろと見ながら、変な調子で言った。
「あるの? ……無い……?」
「無いよ」
 明三は、まだ問の意味が解らないように、彼女の顔を見ていた。
「私、あると思うの……」
 女も、彼の顔に見入りながら、力ない声で言い出した。
「そうかい。じゃあるんだろう」
 明三は、独言のように言った。
「昨夜ね、あの娘さんが来たのよ……。私の所へ」
「どの……」
「ほら。あすこで、貴方あなたが歌を唱ってやっていた……」
「…………」
 明三は、彼女の眼を見てふるえ出した。そして、何かぶつぶつと独言を言った。
何所どこへ、来たんだ……」
 しばらくしてから、彼は苦しげなうめくような声で言った。
「ほうら、あすこのへやへ……。あの扉からはって来たのよ」
 女は、自分のいる監視者たちへやを指した。女はそして、宛然さながらうわごとのような、弱々しくふるえる声で言った。
「あすこの、暗い隅へやって来て、私の、肩に触って起こしたの……」
「夢を見たんだよ……」
 明三は、うめくような声で言った。
「いいえ。私はちゃんと眼を覚して、もうそこをはって来る、疲れきったような足昔まで、聞いてたの」
 明三は、もう何も言わないで苦しげに自分の頭をつかんだ。
「私は、……その手に触られた時、宛然さながら、死霊の息吹でもかけられたようにふるえ上ったわ。それは、そんな気味悪く冷たい手だったの。私は、もう物も言えなくなってしまって、黙って頭をあげたの……。それは、もうあれに違いないと、何もかも解ってしまったから……。そうしたら、あのひとは、そこへ坐って、じっと私の眼に見入って、何か言いそうに唇をふるわせたけどまた黙ってしまったの」
 時子は、深い息を吐いて、じろじろと探るように彼を見た。
「解って……? そして、しくしく泣き出したのよ。きっと、何か言いたかったに違いないんだけど……。泣きながらも、何度も顔をあげて私を見たの……」
「そして、そして、何か言ったかい……」
 遂に明三は、急しい早口でおずおずと言った。
 女は、吸い寄せられるように、ひたと彼の眼に見入って溜息を吐いた。そして、重たげに頭を垂れてしばらく黙っていてから、言い出した。
「何も言わないの……。あれはきっと、貴方あなたの事を、何か聞きたかったんだわ……」
 そして、薄笑いでもするように唇を歪めたが、その顔は泣くように暗かった。
「もう、止めてくれ。その話は……」
 明三は、弱々しいふるえ声で、言った。
「じゃあ、貴方あなたは、これが嘘だとでも言うの。そんな……」
「じゃあ、話してくれ」
「ほうら、聞きいでしょう。ね、……」
 彼女は、ヒステリックな変な笑い方をした。
「私は、ふるえながら……、そっと扉の所を指したの。そしたら、あの娘は、泣きながら黙って行ってしまったの」
 女は唇を噤んで、気味悪いような眼を光らした。
「それから」
「おや……。それっきりよ。後はあなた、自分に聞きなさいな。あれから、きっと貴方あなたの所へ来たのよ」
 女は、きつくような眼で、彼を見た。明三は、その言葉を一一・・度量衝はかりにでもかけるように、彼女の唇を見ていた。
「あれは、貴方あなたの所へ来たのに、まどいして私の所へ来たのか、でなければ貴方あなたの所を聞きにきたのよ。きっと……」
「そうかい……」
「ね、幽霊てものは、あるでしょう……。私、その出て来るあしおとと、啜り泣きの声まで聞いたの、布団の中に縮こまって……」
「あるんだね……」
 明三は、何か深い物思いに悩みながら、ただ唇だけで答えた。
貴方あなたの所へ、来たでしょう。女は、おずおずしながら、言い出した。
「来たよ……」
「何を言って……」
 そして、再び探るように彼の眼に見入った。
「私には、言われない事
うだよ」
 女は、急に笑い出した。
貴方あなたは、うわごとを言ってるの」
うだろう」
 時子は、急にたちきったように笑いを止めて、かんがい深いうれわしげな顔をして彼を見ていたが、すぐに彼の指を握って、笑い出した。
「こう言う事……」
 敏捷すばやく彼の肩に手をいて、その首に接吻した。
 何故なぜか、明三はその時少年のように羞渋はにかんで、彼女をおしのけた。
 女は、うなだれて、幽霊のように弱々しい歩調で、歩み去った。片眼の、炊事番の老爺おやじは、遠くから彼等を見ていたが、女が彼を離れ去ると、頭も挙げないでいる明三の所へ、そっと歩いて来た。そして、遠くから彼の手に何かの紙片を握らせた。 明三は、顔をあげて彼を見た。
 そして、何か言おうとして唇を動かしたが、黙って一本の指を立てて奇妙な手真似をしてみせて、時子の後から監視者たちへやって行った。
 明三は、茫然彼を見送っていたが、その姿が消え去ると、自分の掌の紙片を見た。
 しかし、それを開いて見ようともしないで、見つめたまままた何か物思いに耽るように頭を垂れた。
 次の日の朝の、まだ黎明よあけまえに明三は眼を覚して、その紙片を拡げて見た。それは、封を破られた、鼠色の極小さな封筒で隅々はひどくすりきれて、ほとんど解らない程にも汚れていた。
 そこに、ふるえるような薄い鉛筆で宛名が認められ、裏には、隅の方にただ一字、雪と書いてあった。明三は、唇をふるわして、その汚れた封筒に接吻した。封筒は、すっかり擦れて消えてしまっていた。誰かの懐の中にでも長い間はいっていたらしかった。彼は、胸を躍らせながら、ふるえる手で封をきった。彼の眼は異様な、ほとんど恐怖と言ってもいい程の色が現れて、その顔はすっかり青ざめていた。
 私の、生きてる日は、
 もういくらもありません。
 ただ一度、一度だけでも、
 私の顔を、あなたの胸に
 あてさせてください。
           雪。
 粗末な西洋紙の切れ端に書かれた、一つ一つの字がふるえていた。そして、悲しげに啜り泣いてでもいるように見えた。ただ、それだけの字を、彼は幾度も読みなおした。
 そして、涙に潤んだ眼で、何時いつまでもそれを見つめていた。その粗末な灰色の薄汚れた紙の上に、やみおとろえた青白い顔が滲んで来た。そして、深い悩みを含んだしずもった黒い薬液のような瞳が、悲しげに彼を見つめた。青ざめた花を思わせるような唇は、物言いたげにふるえる。
 明三は、手で顔をおおうて忍び泣いた。
 しばらくしてから、彼はその紙の裏にかかれたたどたどしい・・・・・・字を見つけ出した。
  姉さんは、ひどく悪いの
  です。きっと死ぬでしょう。
  毎日、兄さんの事ばかり
  言っています。すぐに、
  私たちの所へ、帰って来
  てください。
  九月七日     きく。
「おお、きくちゃん……」
 彼は、満眼の涙を手で拭いながら、胸の中で叫んだ。
「私は、私は……。皆を苦しませる。ゆるしておくれ……」
 彼は、何時いつかその少女に言った言葉を、再び彼女の手紙にむかって何か咎められて言訳でもするように言った。
 彼は、その終日ふさぎ込んでいた。夕方、部屋へ帰ってから彼は、老爺おやじに会った。そして、隅の方へひっぱって行ってささやいた。
「あれは、何時いつ来たの……」
「あれは、俺もわからないよ」
 老爺おやじは、困った顔をした。
「もうひとつきも前なんだね」
「そうか」
何所どこで、見つけたの」
「あのひとの……、着物の中で……。ほら、あの晩のね……」
「あの、女の……。着物……。ああ……」
 明三は、きれぎれにうめくように言った。
「あれは、あの人がとっていたんだ。そして、きっと……」
「ああ、もういいよ。お爺さん。解った。解った」
 彼は、その人から離れ去って、薄暗い壁のあたりをうろつきながら、暗い萎れた顔をして、うなだれていた。