第50節
近松秋江氏は私かなりに古くから知っている。尠くとも明治三十三四年頃から知っている。正宗氏と比べては、その方が先きであったかも知れないけれども、とにかく同級生で、略々故郷を同じくしているということは、私も前からよく知っていた。
しかしかれは文壇においては、正宗氏のように好運ではなかった。かれは長い間苦んだ。小説が書けぬことで苦しみ、容易に文壇に出られないことで苦しみ、自然派の夥伴になることを好まない点で苦しんだ。抱月氏に世話になったけれども、純然とした早稲田の夥伴になることもできないので、そこでも継子扱いされて困った。かれは何方かと言えば饒舌家でそして道聴塗説家(※知ったかぶり)であった。彼方にも行けばこの方にも行った。そして到るところで、あまり好感をもって迎えられたとは思えなかった。
かれは自然派にも夏目氏のもとにも平気で出かけて行くひとりであった。
かれはその姓にも示しているように、近松(※門左衛門)のものが好きであった。曽て早稲田に生徒でいる時分、正宗君や中村吉蔵(※劇作家)や西村酔夢(※歴史学者。本名は真次)や高須梅渓などと近松研究会というのを起したことがあったが、その頃から近松には深く憧憬していたらしく、始めは本姓の徳田でいたが、いつからともなしに、近松第三世をもって自ら任ずるような形になって行った。
かれは永らく文壇に蟄伏していたが、享楽主義が芽を出し始めた頃になって──つまり自然派が疲れたり乱れたりした後になって、『別れたる女に与うる手紙』という一篇を公にして、一躍して有名な作者となった。
それからかれは『疑惑』を書き、『舞鶴心中』を書き、『仇浪』を書き、『未練』を書いた。太い粗い自然派の作風に読み労れた世間は、そこから一種叙情的な、女々しい、細かい感じを受け得たことを喜んだ。
しかし、かれは近松の流れを汲んだものと言うことはできなかった。近松と比べて、かれは小さかった。繊細にすぎていた。近松はつくる作家であるのに、かれはあらわす作家の方に近かった。自己に閲歴(※社会に出て過ごした経験)がなくては、決してすぐれた作を書くことのできない作者であった。かれよりは正宗君の方がかえって近松に似たところがあるのを私は感じた。
しかし、『別れた妻』『疑惑』『未練』などの持った芸術味は、ちょっと他に類を求めることのできないものであった。それはかれの実生活を知っている読者は、作と実際との比較上、一種不愉快ないやな臭気を嗅ぐような気がするのを何うすることもできなかったけれども──またその臭気のために圧倒されてその作のすぐれた味をも本当に味うことができないようなところがあったけれども、それでも、その本当は、その真劒は、時を経るに従って、かれの実生活のこの世から亡くなって行くにつれて、益々その光輝を増して来るであろうと思われた。
これというのも、かれが男女の問題について深く体験するところがあったからで、その事実は一々これをその作中に指すことができるばかりでなく、あるいは人によっては、その題材によって、もっと烈しい強い悲しいものをつくることができたかも知れなかった。それに、到るところで女のために苦しんでいるかれの惨めさが、そうなって行くのがあたり前であるというように他に思わせるようなところがあるのは、そこに、実生活に、やはり、本当でないところが、弥縫に弥縫を重ねているような形があるためではなかったか。
かれは秋声氏と善く、時には僕は徳田さんの弟子です! などということがあるそうであるが、秋声氏と比べては、かれは全く違っていることは私は思わずにはいられなかった。かれには秋声氏の持ったようなああした客観味は乏しかった。また多勢の人物を並べて、それを一つ一つ丹念に刻り上げるような技量を持っていなかった。人生というものに対する洞察でも、秋声氏のように大きく且つ広いとは言うことはできなかった。かれの味は全くその主観的な、閲歴的なところにあった。
これに比べると、中村星湖氏は全くその形が違っていた。かれは早稲田の自然派の畑に生立った作家で、島村氏の感化をことに多く受けたひとりであった。かれは批評に、創作に、常にテキパキとした態度を取るのを例とした。短篇にもすぐれたものが多かった。『失われた指環』はその多い短篇集の中でもことにすぐれたものであると言わなければならなかった。