血の呻き 下篇(11)
四九
雪子は、唯一人で、薄暗い室に寝ていた。
「あら、帰って……」
「ええ」
明三は力なく其所へ坐りながら言った。
「どうしたの」
「あの女は今、馬車で火葬場へ行ったから」
「然う……。あのね、私そっと貴方に話し度い事があるの。起して下さいな」
「何を……。誰もいないよ」
「だって……。ね、起して下さいな」
「きくちゃんは……」
「私、知らないわ……」
明三は、彼女を抱え起した。
「あのね」
雪子は、彼の腕の中で言った。
「私……」
「何、……どうしたの」
「だって、恥かしいから……」
「言って御覧……」
「いやよ」
そして、眼を閉って彼の唇に、接吻した。
「ね、兄さん……」
その時、戸外から帰って来た菊子は、愁わしげに明三に言いかけた。
「何……」
「ほら、あの……甕よ」
「どうしたの……」
「姉さんが、見たいって言うの……」
「もういいのよ。菊ちゃん。いらないんだわ……」
雪子は、彼から顔を反けて言った。
その夜彼女等は、暗がりの中の白い花のように、穏かな眠りで睡った。明三は、幾度も眼を覚した。そして、溜息を吐いては、何かに魘われるようにきれぎれな事を考えた。彼は、唯一人黒い苦悩の花のように、彼女等の側に横たわっていた。
次の日、茂が、飄然と惨めな疲れはてた態をして、やって来た。
「おい」
「何うした」
明三は、起上った。
「お前に話したいんだ」
「然うかい」
彼が出て行くと、少年は懐中から紙片に包んだ白骨をとり出して彼に見せた。それは、細長い折れた肋骨のようであった。
「何したんだ」
「これは、あの女の肋骨だよ」
明三は、手にとってしみじみと見ていたが、眼を潤ませて弱々しい声で言った。
「俺に、これをくれ……」
「いけねえ」
少年は、それに手をかけて言った。
「くれよ。金をやる」
「いけねえ」
「じゃあ、お前どうするんだ」
「持ってるのよ」
「然うか……」
明三は、力なく言って、密とその骨に接吻した。
「何だ、お前……。そんなばかな事をするもんじゃねえ」
少年は、不思議そうに彼を見て言った。明三は、何も答えないで、壁の方を向いて泣き出した。
「何だ。お前、泣いてるのか。おい……少年は、彼の肩に手をかけて揺った。
「どうしたんだ……」
「…………」
明三は、何も答えないで嗚咽いていた。
「じゃあ、やるよ。半分だけ……。さあおい……」
「…………」
「だって、俺あ、辛っとこれだけ盗んで来たんだぜ。皆さらえて、あの銀行屋が持ってってしまったんだ。ほら、半分でいいだろう……」
少年は、音を立ててそれを折った。そして、彼の手につきつけた。
「要らないよ」
「馬鹿だなあ……。半分だっていいじゃねえか。遣るってのに……」
「然うかい」
明三は、それを受取って自分の衣嚢へ入れた。
「じゃあ、俺あ行くぜ……」
「何所へ、行くんだ」
「寺へ……。その外、何所へ行く所がある……」
「然うか……」
明三は、固く彼の肩を抱きしめてその髪へ接吻した。
「お前は、おかしい人間だなあ……」
茂は、じろじろと彼を見て、歩き出した。
雪子は、またひどく不機嫌だった。彼女は、自分の枕元の花が萎れて居ると言って、泣き出した。
「私、早くこんなになってしまえばいいの……。だから、きくちゃんは、こうしてるんだわ」
少女は、傷口に触られたようないたいたしい顔をして、わびた。
「私、悪かったの。姉さん堪忍して……」
「もう直き、私死ぬと思って、唯そんな事だけ言うのよ。菊ちゃんは」
「いいえ」
「然うよ。だって、だって……。ああ、私は、どうしても死ななきゃならないんだから……。いいわ、いいわ……」
明三は、虐まれるような惨めな暗い顔をして、彼女の側に坐った。雪子は、泣きながら、狂人じみた手で彼の胸を抱いて、その唇に接吻した。
「私、私は、死、死に度くないのよ。ね、ね……」
そして、惨めに身を悶えるのだ。明三は、その肩を抱いて子供にするように、彼女の髪を撫でてやった。彼女は、事実小児のように苛立って、泣いて訴えるのだった。
そして果ては、その腕の中へ重たく頽れ込んで眠ってしまった。
その夜から、果てもなく長いような、暗い霙雨が降り続いた。
六日も、七日も、八日も……。黒い糸でも吐くような陰暗な雨は、地を凍えさせて降り続いた。
彼女は、その間中、不安な焦燥の中に、惨めな苦悩をくりかえして泣いた。
一度なぞ、身悶えして、そこにあった散薬の包を、壁に投げつけて泣いた。明三は、殆んど夜も日も、彼女の側にいた。菊子は、唯怯々とこの女の眼に見入りながら、何もかも言うままにしてやった。
「ね、兄さんも、菊ちゃんも、私をほっといて、何所へでも行って……。私独りで死ぬのよ」
彼女は、そして声をあげて泣くかと思えば、すぐにまた寂しい顔をして、総ての事を彼等に許しを乞うた。
「ね。もう些しよ。その間、許して下さいな。兄さん。菊ちゃんもね……」