血の呻き　上篇（5）

　　　　　　　　　五

　赭あか土つちの丘の上の監獄では、老耄おいぼれた看守長が、彼を待っていた。総すべての事は、この人の手でうまく図られていたのだ。明めい三ぞうは、その人の手に山口の名刺を差し出した。彼等は、薄暗い石の壁の下で、眼を見合って、黙って重苦しい薄笑いを交した。彼等は、然そうして暗い牢獄の奥の方へ無言のまま歩いて行った。
　廃墟のように寂寞とした廊下に、二人の靴の音が、怯おど々おどと響いた。その通路に向った、どの監房も空いているらしかった。廊下の端まで歩き尽した時、そこにあるひっそりした監房を、看守長は指した。彼は立止まって、中を覗こうとした。
「いけない。中から見えるんだ」
　明三は、隅の方の冷たい壁に吸着いて蹲うずくまった。看守長は、また黙ったまま歩み去った。
　監房には、六尺四方位（※一尺は約三〇センチメートル）の、小さな窓が唯ただ一つ廊下の壁を破っていた。房は、墓穴のように狭く、陰気で、どこかの小さな窓から流れ入る、嘆息のような光りが漂っていた。その男は、暗い隅の方に、蜘蛛か何ぞのように、石の壁に粘着いて踞うずくまっていた。長い汚れた獄衣を着た、蒼ざめた顔をした、痩せた小さい男で、頭の髪は長く茫々と乱れていた。囚徒は、死んだもののように眠っていた。その頭を石の壁に押あてて微動もしないのだ。土気色の垂れた下唇の間から、白い歯が気味悪く光っていた。彼は、吸い寄せられるように、その窓に顔をよせて、その囚人に見入った。
　その男は、放火強盗でまた二十三年の刑期を持った囚徒であった。彼は汚い縮毛の恐ろしい大きな蜘蛛かなぞのような気味悪い不格好な頭をした陰気な眼の男であった。彼は五箇か月げつ前にこの集治監を破獄して、Ａ町で強盗、強姦、殺人、あらゆる事をやった上に、遂と々ど（※とうとう）或ある日ひの夕暮五歳ばかりの少女を、一箇この餅菓子をくれて、瞞だまして空家へ連れ込んで散々弄んだ。宛然えんぜんその霊も肉もずたずたに噛み破るような事をしたのだ。そして、どこかで盗み出した下駄を拵こしらえる鉈なたで、彼女を脅してその恐怖と戦慄とを楽しんだ上に、全身を膾なますのように刻んでしまった。
　彼は、全く発狂した獣のようにその屍の肉片を貪り食っている所を逮捕されたのだった。
　そして彼は、随分長い間を暮したこの監獄で、死刑になることに決きまったのだった。
　日の光りは、溜息のように次第に薄れて来た。
　囚人は、物に襲われでもしたように眼をさまして四周あたりをみまわした。
　冷めたい地の底のような、石の室へやである。彼は、また力なく首を垂れて指折って何か数えながら、呟いた。いや、ただ唇を慄ふるわしたのであったかも知れない。そして、慄ふるえる指で壁を爪で搔いていたが、何か二つばかり、字のようなものを書いた。
　床ゆかの上には何かの重い液体のような闇が、もう永久に然そうしていたように淀んでいた。
「ああ、あ……」
　囚徒は、泣くような深い溜息をして、床の上に俯うつぶした。儼おごそかな光りは、全く闇の唇に吸い尽されてしまう。厚い石の壁を隔てて、二人の未知の男は、石のように黙りこんで蹲うずくまっているのだ。長い時を経てから、さっきの看守長が、小さなカンテラを持って、忍び足にやって来た。そしてそれを、窓にあてて中を覗いた。囚徒の意地悪い嗄れた呻うめき声ごえが聞えた。監守長は、そのとき廊下に立っている彼の所に歩み寄って、カンテラを置いて、指を立てて、何かの変な手まねをして、薄笑いして行ってしまった。
　彼は、それを床の上に置いて、灯を沈めた。灯光は、病人の吐息のような、蒼ざめた暗さになって慄ふるえた。
　明三は、何とかして中を見ようとしたが、唯ただ墓穴の底のように暗く、寂然としていた。然しかし、五分も経たないうちに、彼はその石の床を曳ひきずる重い鎖の音を聞いた。そして、その僅かな光りのあたる、石の隙間に、髪の乱れた蒼ざめた顔が、喘ぎながら現われた。執拗な死にかかった蛇のような、気味悪い眼が、闇の中で光った。その、恐ろしい、頭だけの奇怪な生物は、光りを貪り食うように、暗い石の隙間に粘着いて、その歯を露わして低く呻うめいた。
　手も足も重い鎖に縛られた獣のような人間が、その気味悪い眼を瞬きもしないのだ。明三は、廊下の暗がりでたまらなくなって後あと退ずさった。囚人は、その暗がりの中からのろのろと頭を擡もたげた陰影のように立っている彼を見て、怖おびえたように、呻うめいた。そして、頽くずおれるように、暗がりに跼せぐくまり込んだ。明三は、胸を慄ふるわせながら、暗い小窓を見つめていた。監房の中では微かな呼吸の声さえ、聞えなかった。彼は、何だかまだ死にきらない体で、柩ひつぎの中に容れられて蓋を厭えられているような気がした。今にも、自分の息がつまりそうに思われてならなかった。彼は、化石したようになって、もう考える事も出来ない程の長い時間を、壁に靠もたれて立っていた。
　十一時になると、二人の本物の看守がやって来て、その監房の重い鉄の扉をあけた。彼等は、食物を持って来たのだった。何かの壺や、鉄製の食器の音がした。
「おい、食物だよ」
　一人の看守は、沈んだ声で言った。囚人は、その壁に粘着いて、何かに憑れでもしたように怪しく眼を光らして、慄ふるえていた。
「何の食物ですか」
　囚人は、弱々しい声で訊たずねた。
「…………」
「あれは、何ですか。あすこにいるのは……」
　囚人はまた怖こわ々ごわしながら訊たずねた。
「何所どこに」
「あの、暗い廊下の壁の所に」
「何だ、何もいやしないよ」
「へえ」
「どんなものだ」
「恐ろしい、影のようなものでしたよ。……幽霊……」
　そして、囚人は口ごもって黙ってしまった。
　彼等は、黙って出て来た。一人の看守は、カンテラを取って窓の所へ光りが射すように吊るした。そして、も一度中を覗いてから去った。
　廊下の影は、また窓の外に這いよった。年とし老とった囚人は、床の上を見つめながら、何かぶつぶつ言っていた。その肩は、瘧おこりでも患っているように、ぶるぶると慄ふるえて、頭は、ふらふらと悪霊に魘おそわれでもしたように、揺れ動くのだ。そして、長い間を経てから、食物の方へ這い寄って、瘦せ細った手で、慄ふるえながら、小さな漬物かなぞの一片を口に啣くわえた。彼は、それを二口ばかり嚙んだがすぐ取落して、壺の水を喉を鳴して呑んだ。そして隅の方へ踊って行って、跼かがみ込んでしまった。
　再び二人の看守は来た。
「旦那様……」
　囚人は、哀れっぽい声で言いかけた。
「何だい」
「どうも、その……」
　彼は、きれぎれに言って、然しかし、遂に黙り込んでしまった。
「汝おまえは、何故なぜ物を喰たべないんだ。もう三日も……」
「今夜は、水を頂きました」
「ぐあいが、悪いのかい」
「…………」
「じゃあ、眠るがいい、悠ゆっくり」
　彼等は、食器を持って行ってしまった。囚人は、耐えがたいように立上って、その鎖のついた足でのろのろ歩きはじめた。壁にとりついて、弱々しい歩調で、這うように歩くのだ。その呼吸は、せかせかと、まるで落込んだ坑あなから這い出そうとして踠もがいている獣のようであった。
　終しまいには、足が動かなくなってしまって、その壁の下に頽くずおれ込んで、両手で顔を掩おおうて忍び泣きしだした。
　囚人はそうして、まる一時間も、小児のように欷歔すすりないていた。が遂にはまた、蛇のように壁に這いまつわって、のろのろと首を窓まで擡もたげて来た。青ざめた光りの流れは、その顔に当った。彼は、長い間そうして、空虚な暗がりを覗いていては疲れきってまた頽くずおれてしまう。然しかし、幾らも間をおかないで、またのろのろと首を擡もたげて来るのだ。音もなく、深い坑あなの底からでも這い出して来る生物の首のように。そして、唇をふるわしながら、弱りきった吐息をして、黄色く渇いた輝きのない不気味な眼で、光りの奥の暗がりに見入るのだ。何かの気味悪い虫の触角のようなその視線は、ねばねばとそこらを探って這いまわる。
　数えられない程ほど幾度も、執拗に首を擡もたげて来る。死にかかった蛇が、深い甕かめの中から、腫れ上った気味悪いその頭を擡もたげて来きでもするように。
　明三は、凍えたように立たち竦すくんでいたが遂には熱の発作でも起きたように、唇を慄ふるわした。
　頭は、この囚徒の事件のもっていた、不気味な残忍の泥濘にずるずると陥ち込んで行った。
　終しまいには些すこしも早く、この気味悪い、厭いとわしい蛇のような男を、硝子ガラスの破片かなんぞで些すこしずつ肉を挘むしり取るとか、足の方から些すこしずつ、火の上で燃してしまうような方法で、あの世へ送り出してやり度たいとさえ思う程だった。彼は、今にも自分が発狂するんじゃないかと、わなわな慄ふるえさえした。そして、唇をかみしめて、叫び声を立てまいとしながら、その鉄の扉に、門板かなぞのように、粘着いていた。暫しばらく立つと、微かに室内からその厚い扉に触れる生物の気配がした。彼は扉の影に這寄って、今自分がしているように、耳を押当てて何かを探ろうとしている、蜘蛛のような生物をありありと頭に泛うかべた。その時、慄ふるえる指の爪で扉を搔くような、かりかりと言う微かな響がした。
　明三は、耐たまらなくなって、二つばかり弱々しく扉を叩いた。中では、それっきり静しずかになってしまった。
　窓の所へも、這い上って来なかった。そして、気味悪いような闇あん寂せきの底にまた、啜り泣きの声が起って、果てしもなく続いた。
　突然、遠いニコライ会堂の黎明の勤ごん行ぎようの鐘の音が、深い海の底のような静もりの中に流れて来た。その哀しげな響は、啜泣きのように暗がりの中を這いまわっては溜息のように、どこともなく消えて行った。囚人は、魘うなされたように二言ばかり、舌した縺もつれした声で何か呟いた。そして彼は、遂に疲れきって、そこに跼せぐくまり込んだまま、冷めたい石の床に顔をつけてうとうと・・・・と、惨みじめな睡ねむりに陥ちたのだった。
　遂に高い小さな窓から、微かな疲れたような灰色の光りが、流れ込んで来た。黎明の、疲れた静寂の中に、明三も壁に靠もたれてうとうと・・・・とした時、微かな足音を立てて、六七人の人がやって来た。彼等は、唯ただ一つのカンテラを持って来た。皆、黙りこんで薄あかりの中に、何か幽霊のような形をして空洞な廊下を歩いて来た。
　典てん獄ごく（※刑務官）は、意地悪そうな併しかし病やみ疲れた人のような、不気味な貌かおをしていた。廊下に立っていた男は、黙って彼等に頭をさげた。
　重い扉は、呻うめくような音を立てて、開いた。囚人は、それでも起きあがらなかった。軀幹たけのひょろ高い検事は、悩ましげな溜息を吐いた。
「おい」
　典獄よりも、もっと年とし老とった老婆のように腰の屈かがまった看守長はそっと、囚人の肩に触った。人は起き上った。無論眠っていたのではない。彼は、弱々しく首を擡もたげて、薄明りの中に灰色な影のように佇んでいる人々を見た。
「さあ、出るんだ」
「何故なぜ」
「…………」
　彼は、今まで慄ふるえながら摑つかまっていた坑あなの縁から、暗い底につき落された。彼は、総すべての事を覚えてしまって、顔をさげて黙り込んだ。そして、再び人々を見ようとして顔を挙げたが、もうそれを支えている事も能できない程ほど疲れた人のように、力なく床の上に頭を垂れた。
　黒い僧衣を纏まとった病人らしい年とし老とった教きよう誨かい師しは、彼の側に跪ひざまずいて何か咡ささやいた。典獄は、その前に立って、何かを読みあげた。然しかし、それが何なのか、完全に聞き取る事さえ出来ない程だった。彼等の言葉は、皆みな恐ろしい早口で、譫うわ言ごとのようにぶつぶつしていた。
　二人の看守は、この、死ぬ事を言い渡された男を立たせた。教誨師は囚人の肩に触れる程もよりそって、何か低声で物を言いつづけていた。然しかし、彼にはそれを一言も聞き取る事が出来ないようであった。彼は、空虚な薄暗い室へやの中を、のろのろと見まわした。そして、微かな明りのしている窓に長い間じっと見入った。それから足につけられた鎖を曳きずってのろのろと歩きはじめた。
　扉に近づいた時とき囚人は、暗い廊下の隅の方を覗こうとして、夜どおしその扉に靠もたれていた男をふと見ると、立たち竦すくんで彼に見入った。囚人は、わなわなと慄ふるえて足がすくんだように、腰を屈かがめた。そして、吃どもりながら何か言おうとして、唇を顫ふるわしたが頭を垂れて黙ってしまった。老耄おいぼれた看守長は、のべつ溜息をつきながら人々の先に立って歩いた。
　廊下に立っていた男も、足に鎖でもまかれたように、重たげに息を吐いて歩いた。彼は、熱に魘おそわれたように慄ふるえていた。長い廊下を行き尽くすまでに、囚人は怯おど々おどと二度も彼を振り返ってじっと見入った。
　戸外へ出る硝子ガラス扉の所で、囚人は立止まって跼せぐくまり込んだ。
「どうしたんだ」
　一人の看守は、叱るように言った。囚人は、それにうつる自分の額に、しみじみと見入ったのだった。検事と、典獄とは悩ましげに顔を見合した。
　死の幕とばりのような、灰色に曇った空が、地の上に低く垂れていた。青ざめた夜明前の光りは、重い嘆息のように、地を這って漂い流れた。
　彼等は、囚人を古びた阿弥陀堂の前に連れて行って、そこに跼せぐくませた。教誨師の、低い啜り泣くような読経がはじまった。それは、懶ものうい哀訴をでもくりかえすように、果てもなくつづいた。囚人は、地面に顔をつけてしまった。それは、禱いのりでも何でもなく、もう自分の頭を支えている事が出来なかったのだ。
「何か、言い度たい事はないか」
　典獄は、彼の上に跼かがみ込んで訊たずねた。
　哀れな囚人は、力なく顔をあげて何か言いたげに、唇を動かした。然しかし、その唇は、乾いた布片きれのように渇いて慄ふるえただけだった。
　明三は、手桶からコップに水を汲んでさし延べた。囚人は、その男の顔をチラと見ると、わなわなと慄ふるえて、水を滴こぼしてしまった。そして僅かに甜めるようにしただけで顔を反けてしまった。
「何だ」
　典獄は、また呟くように言った。囚人は、首を振って黙り込んでしまった。その時、突然一人の看守は、嚢ふくろのような白い布で彼の顔を掩おおうた。囚人は、熱病患者のように怖ろしく戦慄して、そこへ倒れそうになった。二人の看守は、素早く彼によりそって、曳きずるようにして、彼を立たせて、徐そろ々そろと歩きはじめた。そして終ついに階段の下まで行き着いた。検事と、医師と、典獄とは、そこに立止まった。看守長は、哀しげな嘆息をしながら、ひどく跼せぐくまリ込んで歩きはじめた。二人の看守は、囚人を曳ひきずるようにして、虫が這うようにその階段を登った。教誨師は、手も足も鎖で縛られた、囊ふくろに包まれた奇妙な頭に何かたえず言い聞せるように咡ささやき続けていた。囚人は遂に絞首台の上に坐った。看守長は、瘦せ衰えた手で、重い鉄鎖のついた締輪を彼の首にかけた。囚人は、下の人々の耳にまで気味悪く明らかに聞えた程の音を立てて、最後の呼吸を貪るようにした。
　教誨師は、哀しげに、長く声を曳いて、念仏をした。そして跪ひざまずいて囚人の手を組合せてやった。囚人は、身悶えて俯うなだれたが、執拗に黙っていた。遂に教誨師は二歩ばかり後あと退ずさった。その時、典獄は検事をちらと見て、重々しく手を挙げた。息づまるような闃げき寂せきの中に、がたんと支柱の倒れる恐ろしい音がして、囚人の躰からだは絞首架の下に張られた白い幕の中に陥ちて行った。そのほんの二秒ばかりの空間を辷すべる間に、死にかかった人間の躰からだが、微かな、併しかし、恐ろしく明瞭に、息づまるような泣き声を立てた。
　明三は、自分の首に締輪をかけられでもしたように、よろめいてわなわなと慄ふるえた。
　人々は、棒のように各自の場所に立たち竦すくんでいた。看守長は、重苦しい呻うめき声ごえを立てながら、靴を曳ひきずる音を立てて、のろのろと階段を降りた。
　彼等は、溜息をついたり、空を見上げたり、何か独言をしたりしながら、長い間階段の下に立っていてから、絞首台の下の方へ這は入いって行った。彼は宛然さながら絞首架の段を登らせられる死刑囚のように、慄ふるえながら彼等の後に従った。
　屍は、冷めたい石の床の上に蓆むしろを敷いて横たえられていた。その刑衣は、暗黄色にぶよぶよと腫れ上った躰からだにからまりついていた。締輪の跡のついた長く延びた首の上には、瘤こぶのように腫れ上った頭が、後の方へ投出されていた。その恐ろしく引歪められた死んだ顔の上に、永久に死にきれない執拗な蛇のような眼が、濁った灰色をして気味悪く何かを探しているように見えた。
　高い窓から流れ込む、青ざめた陽光の流れが、怖こわ々ごわとこの不思議な屍を浸した。