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第5節

 長谷川二葉亭は、それでもその『浮雲』に於て明治二十二三年代の日本の家庭を描き出そうと試みていたことは、それは事実であった。つまりかれはゴンチヤロフの『通常人の一生』だの、『オブロモフ』だの、『断崖』だのの手法、描法を日本の家庭生活にあてはめて見るには見たのであった。昇(のぼる)でも、文三でも、お勢でも、お勢の母でも、恐らくは皆なあの時代の標式的の人達であったに相違なかった。お勢の母だの、昇だのは殊(こと)によく出来ていた。あれで、もう少し深く入って行く観察と、力と、表現の方法とを持っていたならば、あの『浮雲』は日本の『断崖』となることが出来たであろうが、惜しいことには、模倣が過ぎて、書くべきところが十分に書けていず、入って行くべきところが十分に入って行けていなかった。それに、作者の年齢もああいうものを書くにはやや若過ぎた。
 それに、一方では、長谷川氏のような新しい人達でも、時代というものの影響を受けないわけには行かなかった。かれでも矢張、漢学を学んだ。戱作的小説を読んだ。かれに取っては何の必要もなかったであろうと思われる三馬や一九のものにも読耽った。そしてその影響がかくされずにその『浮雲』や『あいびき』や「めぐり合』に出て来ていた。かれも矢張当時の通とかいきとか江戸子とかいうことに重きを置きすぎる風潮に余り多く浸り過ぎていた。しかしそれは何うも止むを得なかった。その時代の中にいて、その時代の好尚や、思想や、考え方や、気分やに触れずにいるということは、余程すぐれた天才でもなければ、それはとても出来ないことであった。かれの残した翻訳を今日読んで見ると、そうした弱点がことにはっきりと指さされて見えた。
 若い人達は言った。「あんな翻訳よりも、今の人のやったものの方が、何んなにうまく、また何んなに自由であるか知れない。それに、本当の意味から言っても、原書に近いか知れない。何うしてあんな無駄な努力をやったのだろうな」つまり翻訳者が骨折って、体がわるくなるくらい骨折って、日本の文章に、気分に近寄(ちかよ)せようとしたことが、今では丸で無駄な努力になって了っているというのである。何うしてあんなことに馬鹿骨を折ったかと言うのである。そしてそれはある程度まで真理である! 実際、二葉亭にしろ、紅葉にしろ、骨を折るべきところに骨を折らずに、骨を折らなくとも好いところに馬鹿に力を尽したのである。しかし、これは誰を咎めよう? これも皆時代の感化ではないか。時代の影響ではないか。そういう時代に──そうした馬鹿骨を折らなければ通用しなかった時代に生れた災害ではないか。つまりその時代には、何から何まですっかり日本のものにして了わなければ、翻訳は人が読んで呉れないのであった。「何んだ! こんなわからない文章! 日本にはこんな文章はない!」こう言ってすぐ傍(わき)にやって了うのであった。
 山田氏、坪内氏の英文学、それに『国民之友』一派の基督教から入って行った外国趣味──むしろイギリス文学趣味、そういうものが混雑と巴渦(うずまき)を巻いていたのに対して、忽(たちま)ち起って来たのは、詩の方でのS、S社の『おも影』と、しがらみ草紙のドイツ文学の鼓吹とであった。森鴎外氏は躍然として明治の文壇にその頭角をあらわし出した。
 殊に、私が異様に感じたのは、その頭角のあらわし方が、美妙とか、紅葉とか、露伴とか言う人達と丸で違っていたことであった。そこには一種他と違った外国文学がその背景を成していた。褒めて好いのか、わる口を言って好いのか、ちょっとわからないようなところがあった。『舞姫』の出た時には、ことに、その毀誉褒貶が区々(まちまち)であった。あるものは、「何だ!あんなもの!」と言った。あるものは、「文章が丸でなっていないじゃないか」と言った。またあるものは、「あれは翻訳だ!」と言った。しかし、兎に角、今までになかったものが突然そこにあらわれ出したのは事実であった。同じ『国民之友』附録に出た紅葉の『枯華微笑』(※原文ママ 正しくは『拈華微笑(ねんげみしょう)』)は全くこれがために圧倒されて了った。
 それに、鴎外が学者であるということが、次第に世間に知れわたって行った。かれは軍事衛生を研究するために陸軍からドイツに留学させられたが、その間かれは盛に外国の新しい文学を研究して来たのであった。かれはロシア文学をも研究した。スカンデナビア文学をも研究した。フランス文学をも研究した。否そればかりではなかった、かれは西班牙のカルデロンをさへ読んだ。つづいて美学哲学にも及んだ。であるから、かれが日本に帰って来た時には、その方面にかけては誰もかれに刄向うものはないと言っても好いくらいであった。それにかれは論難に長じていた。かれは漢文崩しに翻訳口調を交ぜたような文章で、四角八面に切って廻した。実際、当時の文壇でかれに相手にされないものはないと言っても好いくらいであった。かれは外山正一博士と画論を闘わした。当時の有名な批評家石橋忍月氏と幽玄を論じた。そして最後には、一方に覇を唱えてゐた早稲田の坪内氏と例の有名な没理想戦をやった。
 尠くとも私はしがらみ草紙を愛読した当時の文学青年の一人であった。私はそこからいろいろなものを教えられた。ゾラの実験写生説も、ハルトマンの仮象説も、印象派や外光派の画の話も何も彼も、皆なそこで教えられた。何でもその時分、博覧会があって、その美術館に陳列された油画(あぶらえ)の部分を鴎外氏が国民新聞で批評していたことがあったが、それを私は毎日毎日切抜いて置いて、それを持って、一々その絵に比べて見て歩いたことがあった。「えらい人だな! 何でも出来るんだな!」こんな風に私は思った。
 しかし、今日考えて見ると、あの森氏のような新帰朝者──新しい外国の知識を沢山に持ってそして帰朝して来たものは満更(まんざら)ないではなかったのであった。私の知っているだけでも、尠(すくな)くとも二三人はいた。しかし、そういう人達には、惜しいことには、それを振廻す和漢学の力がなかった。文章がなかった。またあの何でも出来るという才能がなかった。