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第26節

 与謝野寛(※鉄幹)の『明星』が捲き起した運動も、当時の文学青年を魅し去るには十分であった。一時、そこにもここにも四六二倍の判の大きい『明星』を手にしている人達を見た。
 かれは詩人としては、かなりに名高かった。最初に『東西南北』を出した時分には、虎の鉄幹などと言われて、斎藤緑雨などにすら鼻持のならないように言われたものだったが、次第に世間に認められて、『明星』を出したり、例の晶子と一緒になったりした時分から、確乎とした位置を占めるようになった。晶子の歌もその時分には非常に評判で、例の『みだれ髪』などの売行きは、一時市価を高からしめたくらいのものであった。
 この時分には、詩壇も一変遷を来していた。もはや『若菜集』の時代ではなかった。藤村の『落梅集』は、決して評判はわるくはなかったけれども、またその内容もすぐれていたけれども、それはもはや詩壇の先頭に立ったものとは言うことはできなかった。薄田泣菫、河井酔茗、それから蒲原有明がしきりに『独弦哀歌』の高調を唱えていた。
 『明星』のやった仕事の中で、一番すぐれているのは、何と言っても上田敏氏の西詩の紹介であった。今でも『海潮音』のあくがれを記憶するものはかなりに多い。
 しかし上田氏の紹介は、やっぱり鷗外氏のやり方で──否、それよりも一層キザで、人の知らない新種を披露して、そして喜んでいるという風であった。もはやあの時代は、ヨオロツパでも、ああした『詩』をああいふ風に紹介したりする時代ではなかった。もっと実際に深く深く入り込んでいた。ボオドレイルとか、マラルメとか、ベルレーヌとか言う人達の詩だと言っても、決してああいう風に、単に新声とか新律とか言うだけのものではなかった。そこには現代の思潮と深く相触れていたデカダンの苦痛が深くその中に織り込まれてあった。
 しかし『明星』の執った芸術至上主義が、時代の趨勢をわきまえないものであったにもかかわらず、かなりに当時の文壇を動かして、一時、小説が光を失って、詩がこれに変ったように見えたのは、面白い現象と言わなければならなかった。
 そしてこの時分から、信州の小諸の島崎藤村が、詩から小説へと移って行ったのである。かれは『新小説』に『旧主人』を出し、つづいて『明星』に『椰子の葉蔭』と『藁草履』とを出した。私もモウパツサンの一短篇をそこに訳した。
 蒲原有明は『明星』の同人としては、かなりに深い関係を持っていたらしかった。そこに出した『独弦哀歌』は、『若菜集』『暮笛集』などにつづいて、長く詩壇に記憶されるべきものであろうと思う。
 ちょうど、その時分、『明星』の社は、千駄ヶ谷にあった。ある日、私は蒲原君と一緒にその近くの林の陰に生田葵山(※小説家、劇作家)を訪うたが、ついに誘われて、その社を訪問したことがあった。私は初めてその時寛氏と晶子女史とに逢ったのであった。
 ところが、この時に際して、日本に取って一大危険であった日露戦役が勃発した。
 世間はにわかに騒がしくなった。もはや文芸などを言っている時代ではなくなった。挙国一致という声の下に誰も彼も応分の力を尽さなければならなかった。二月にはロシアの艦隊が日本の商船を陸奥の艫作崎で撃沈した。つづいて旅順閉塞隊の壮烈な戦死があった。都会も田舎もすべて熱病にでも取りつかれたようになって、万歳の声が到るところできこえた。
 私は博文館から写真班の一員として四月に従軍したので、その年のことはよく知らないが、文壇では別に変った現象もないらしかった。ただ、早稲田の島村抱月がその前年に外国から帰朝して、その新しく持って来た知識を『早稲田文学』の復興に利用する運動があったくらいのものであった。抱月はその第一号に『囚われたる文芸』という文章を載せた。昔のロマンチツクな感じはまだすっかり取りきれてはいなかったけれども、それでも何処かに新しい心持が動いているのを誰も彼も認めた。