血の呻き　上篇（12）

　　　　　　　　　一二

　明け方、明めい三ぞうがまだ眼を覚まさないうちに、靴くつ修繕師なおしの叫声がした。どこかから帰って来たこの小男は、狂人のように喚わめき立てた。
「馬鹿、馬鹿野郎。狂犬奴め」
　彼は、誰もいない壁に向って吠え立てた。恐らくは、腐った魚の臓腑のように酔っぱらった、自分自身に腹を立てて、歯がみしてたのかも知れない。
「何だって、吠えやがるんだ。狂犬奴め！」
　向うの壁の隅に寝ころんでいた印しるし袢ばん纏てんを着た浮浪漢ごろつきが、起上って来ていきなり彼の頰べたを、曲る程も喰くらわした。靴くつ修繕師なおしは、べたりと床へ潰れ込んで、まるで踵かかとのとれてしまった長靴かなぞのように黙って、自分の頭を両手で摑つかんでいたが、急に歯ぎしりして、自分の頭を両手で張り飛しながら、狂犬のように喚わめき出した。
「馬鹿野郎。馬鹿野郎……狂犬奴め……」
　そして、全然発狂してしまったように、酷むごたらしく自分の頭を殴ったり、顔を掻き挘むしったりしながら、そこらを転げまわった。そして、壊れてしまった七輪に噛み着いて気持悪く歯を鳴ならしながら、声をあげて泣き叫んだ。
「何て事だ。犬奴め！」
　磨とぎ師やは、蹙面しかめっつらをして、寝床から這い出して行ってしまった。誰も、この靴くつ修繕師なおしの狂犬にかまいつけなかった。印しるし袢ばん纏てんの浮浪漢ごろつきは、怖こわ々ごわと呟いた。
「何だって、此奴こいつあ・つまらねえ行ま為ねをするんだ」
　そして、妙な顔をして行ってしまった。靴くつ修繕師なおしは、終しまいには虐められた少年かなぞのように、自分の坊主頭を摑つかんで、嗄れた声を立てて泣き出した。
「どうしたの、あの人は」
　仕事から帰って来たきく子は、怖おびえたような顔をして、明三の室へやへ来た。
「あの人は、一人で泣いてるんだから、かまわない方がいいんだよ」
　明三は、沈んだ顔をしていた。小しよう女じよは、彼の側へ身を投出して横たわった。
「今日は兄さんの所で寝る……」
　きく子は、彼の顔を見て恥かしそうに微笑した。溜息をつきながら、彼の懐の中へ頭をあてて、軀からだを跼せぐくめて眠ってしまった。
　誰もいなくなった、空洞がらんとした室へやで、床に顔をあてて、吠えるように低く呻うめきながら嗚咽おえつしていた靴くつ修繕師なおしは、遂に起き上ってきょろきょろ四し辺へんを見まわしていたが、突然恐ろしく眼を光らせて叫びながら、狂犬のように戸外へ飛び出した。
　明三は、そっと起き上って、雪子の室へやへ行った。
「あれは何です。あの泣き叫ぶ声は……」
　老医師は、眉をひそめ彼を見ながら訊たずねた。
「小林ですよ。靴くつ修繕師なおしの……」
「どうして、彼奴あいつは……」
「ひどく、酔よっぱらってるんですよ。それに、……僕にあ・よく解らないけど、何かあるのかも知れません」
　明三は、暗い顔をして、呟いた。
「きくちゃんは」
　雪子が彼の方を向いて訊いた。彼女は愁うれわしげな顔をして、壁の方を見ながら、その時まで黙っていたのだった。彼は、黙って隣室を指した。
「あれも、可哀想に、苦しみ疲れて死ぬ事だろう」
　老医師は、両手で顔を掩おおいながら言った。

　明三は、階段の下で立止った。その荒廃した寺院の、彼女の室へやの扉の所に、だぶだぶした軍隊払はらい下さげの破服を着た男が、疲れた浮浪のら犬いぬのように円まるく軀からだを跼せぐくめて、踞うずくまっているのだ。
　その服は、その男の膝までも届き、袖は、支那服のように、その手の指を隠していた。それが誰なのか、彼には解らなかったが、きっと彼女の買主の一人だろうと思われた。彼は、総すべての事を、あの靴くつ修繕師なおしについて彼女から聞こうとして訪ねたのだった。
　明三は、唇を鳴した。そして、爪先で、こつこつと階段を蹴った。然しかし、その男は眠っていたものか、微動もしなかった。彼は、蠅でも追うように無意味に手を動かしながら、ぶつぶつ独言を言って、歩み去った。
　彼は、重苦しい気分で、Ａ町の坂を降りていた。その時、誰か背後から、走って来て彼に叫んだ。
「彼奴あいつは、気が狂ったよ。靴くつ修繕師なおしは、……困った事だ……」
　それは、磨とぎ師やであった。
「どんな風に」
　明三は、立止って彼を見た。
「奴あ、Ｎ町の古着屋の家根に上って、火事だ、火事だって呶ど鳴なったんだ。どこから、這い上ったものだか……。そいつを、そこの親爺が、長い竹竿でつき落したんだ。彼奴あいつあまるで、破やぶれ靴ぐつかなぞのように転ころげ落おちて、裏の泥溝どぶへ陥ち込んで、二十分もそこを這いまわってから、辛やっと這い出して来たんだ。そして、今度は、店に吊してある破服や、置いてある椅子なぞを、皆、裏の泥溝どぶへ持って行って投ほうり込むんだ。奴あ、ひどく皆に殴られた。そして、呻うなりながら今、裏口に積んである薪を一本ずつその泥溝どぶへ投ほうり込んでいる」
「若もし、止めたりすると、誰にでも喰いついたり、引掻いたりして、泣きながらやるんだ。その家では、誰も遂ぞ彼奴あいつを見た事もないというのに、どこからか降って来たように、やって来てこの有様だと言うんだ」
「然しかし、彼奴あいつは……」
「否、彼奴あいつにかまうな。彼奴あいつは、もうすっかり自分の鎖を噛み切ってしまっているんだから」
　磨とぎ師やは、ふいと彼を残してＢ町の方へ急ぎ足に行ってしまった。明三は、沈んだ顔をして黙って立止っていたが、軈やがて俯うなだれたまま坂を下りはじめた。
　彼がまだ、Ｎ町へ行かないうちに、靴くつ修繕師なおしを見た。彼は、素裸で、一つの破靴を自分の頭に乗っけて、片方ずつの足で跳ねるような妙な踊をやっていた。跛びっこの飴屋が、破れた太鼓を叩いて長い懶ものうい妙な歌を唱いながら、彼の踊に合せていた。
　町の子供等たちは、彼等の周囲を囲とり繞かこんで、笑っていた。
　二人の巡査が、群集の中から現れて、この半狂乱の乱酔者のんだくれに縄をかけた。靴くつ修繕師なおしは、罠にかかった獣のように踠もがいて、叫びながら歯を露出して、めちゃめちゃに噛みついた。そして暴れながら、彼は、群集の中に明三を見つけた。彼は、手を振って叫び立てた。
「兄弟、助けてくれ……」
　明三は、彼の傍へ歩み寄った。
「お前は、何だ。此この男の」
　丈たけの高い、鼻の曲った巡査は、明三に言った。
「何でもありません」
「じゃあ、彼方あっちへ行け」
　明三は、俯うなだれて、退いた。
　靴屋は、素裸のままで仰向に地面に寝ころんで足をふりまわして恐ろしく暴れながら、喚わめいて、豚かなぞのように、縄をつけられたまま曳ひきずられて行った。