血の呻き　上篇（13）

　　　　　　　　　一三

　明めい三ぞうは、走ってＤ寺にやって行った。軍隊払はらい下さげの破服を着た男は、あの時のままで、まだ扉の下に踞うずくまっていた。明三は、手に持っていた柳の枝で、蛇でも追うように二度ばかり地を叩いた。
　ぼろ服の男は、遂に顔をあげた。
「何だ、茂か」
　それは、白痴の少年なのだった。
「いい服を着たね。……いるかい」
　彼は、扉を指して、微笑うすわらいしながら訊いた。然しかし、少年は、黙り込んだまま彼の通路を避けて、そのまま背を向けて踞うずくまった。明三は、室へやに這は入いった。
　時子は、呆然壁を見ながら、何か物思わしげに、横たわっていた。
「あれは、何故なぜあんな所に、居るの……」
「誰が……」
「茂。貴女あなたが飼ってるの。それとも、彼所あそこが、彼あれの家かい」
「知らない。けど、どうしても、彼所あそこから行かないんだよ」
「何故なぜだろう」
「何故なぜだか、人の事が解るものか、ね……」
　女は、何か腹立しげに言った。
　彼は、愁うれわしげな顔をして、黙り込んで女の側に坐った。
「あの、靴くつ修繕師なおしね……」
　明三は、怯おず々おずと言い出した。
「あれは、狂人なんだよ。彼奴あいつは……」
　女は、肩に手をあてて言った。
「昨夜、私を殺すって言うんだよ。そして、靴の底を截きる庖ほう丁ちようを振りまわしたの。だから、戸外へつき出してやったんだよ」
「今、Ｎ町で、裸で踊っていて警察へ曳ひっぱられて行った」
「わたしが、靴の底にもならないんだって事を知らないんだよ。あの狂人は……」
　明三は、頭を垂れて黙り込んでしまった。
「一寸ちょっとおいで」
　女は、茂を呼んだ。意地悪い宮や守もりかなぞのように、壁に吸着いて彼等を睨むように見ていた、白痴の少年は、慄ふるえ上って、後あと退ずさりした。
「お出いでってば………」
　女は、脅すように言った。茂は痺れたような顔をして遂に怖こわ々ごわと、そこへ来て踞うずくまった。そして、焼きつくような眼で彼女を見た。
「いい児こだからね。ウヰスキーを一瓶買って来ておくれ。ほら、金。Ａ町の酒店を知ってるだろう」
「知ってる」
　少年は、嗄れた声で呟いた。
「じゃあ行って来ておくれ」
　彼は、紙幣を摑つかんで、小犬のように走り去った。
「おかしい児こだよ」
　女は、薄笑いして呟いた。明三は、じろじろと埃のかかった葬具や古い柩ひつぎを見ていた。茂は、二十分も経たない間うちに走って帰って来た。笛のような喉一杯の声をあげて、訳の解らない唄を唱いながら。
「ほうら」
　彼は、ウヰスキーの瓶を高く差上げて見せた。
「そう、買って来てくれたの、偉いね」
　汗で、ねとねとした、すりきれた青い紙幣（※二十銭紙幣）をさし述べた。
「ほう、お金も……。偉いね。さあ、それは、お前にあげるよ」
　彼女は、少年の頭を撫でてやった。茂は、わくわく慄ふるえて、苦い顔をした。
「要らない」
「何故なぜ」
「要らないんだ。俺あ、そんだけ価あたいまだ稼いでないから」
「まあ、利口だね。じゃあ、これだけで、幾ら稼ぐの……」
　茂は、困ったように何度も指を折っていたが、遂に両方の手の指を揃えてさし出した。
「そんなにも……。じゃあ、それだけ、後で稼いでおくれ、ね」
　彼女は、微笑しながら、彼の手にその紙幣を握らせた。
「さあ、あっちへ行っておやすみ……」
　少年は、悲しげに顔を曇らせて立去った。
　二人は、また、瓶から口うつしにウヰスキーを呷あおった。女は火のような息を吐きながら、独言のように言い出した。
「冬が、来るのね」
「来るよ」
「貴方あなたは、どうするの」
「困るよ」
「それっきり……？」
「そうさ」
「死ぬよ」
「ああ、死ぬだろう」
　明三は、沈んだ重苦しい声で言った。
「ああ、厭な事だ。誰か可愛がってくれる人の所で、煖だん爐ろの側に置いて貰うか、暖い南の国へでも、連れて行って貰おう。嫌だ。嫌だ。こんな国。雪の墓はか坑あなのような所……」
　女は、泣くような声で、呟いた。
「それは、いいね。僕あどこかで、一人で凍こごえ死ぬよ」
　明三は、薄うす笑わらいしながら言った。彼女は、恐ろしい眼をして、彼を見つめていたが、突然その胸にしがみついて、咽むせぶように叫んだ。
「何故なぜ、私を、殺してしまわないの……」
「お互にもう些すこし生きていてみようじゃないか」
「嫌だ、嫌だ。皆、そんな事を言って、人間は、死ぬまでも、生きているんだもの。さあ、殺しておくれ」
　彼女は、軀からだをすりよせた。
「靴くつ修繕師なおしに、売ればいい値が出るのに。私は、別に女を、靴の底にする為に、買い度たいとは思わないよ」
　彼女は、明三の肩を、爪を立てるようにして摑つかんだ。そして貪り食うように、その首に接吻した。
「ほら、茂も、殺してくれるよ」
　暫しばらくしてから、明三は、懶ものうげに言った。
「何故なぜ」
「あの子は、時さんに惚れてるんだよ」
「馬鹿な」
　彼女は、物思わしげな顔をしていたが、懶ものうげに少年を呼んだ。
「お出いで、……茂さん……」
　少年は、両手を揉みこすりながら、彼女の前へ来た。女は、真面目くさった顔をして言った。
「お前、私に惚れてるのかい」
　白痴の少年は、痙攣的に、ぶるぶる戦慄した。そして、何か言いたそうに唇を顫ふるわして、哀訴するように彼女を見た。
「然そうかい」
　少年は、黙ってうなずいて頽くずおれるようにそこに坐った。時子は、嗄れた声で、痙ひき攣つったように笑い出して、手をさし延べた。
「じゃあ、私の手を握って頂ちよう戴だい」
　茂は、恐る恐る手を差延べて、慄ふるえながら、恐ろしいものにでも触るように彼女の指に触った。
「力を容れて……可愛い人……」
　彼女は、少年を抱きしめて、その頰に接吻した。
「今度から、私の側を離れるんじゃないよ」
　少年は、悩みに惑乱したような顔をして怯おず怯おずと訊たずねた。
「寝る時は……」
　女は、烈はげしく笑い出した。
「寝る時、ハ、ハ、ハ、……。寝る時もさ」
　茂は、粘つくような笑い方をしながら、手を揉みこすった。
「さあ、これをお飲み」
　時子は、瓶の底に残ったウヰスキーをさしつけた。
「嫌だ。苦いもの……」
　茂は、怖おびえたように言った。
「嫌かい。私の出すものは、……」
　女は、脅かすような眼をして、彼を見つめた。
「飲むよ。飲むよ」
　白痴の少年は、泣声で言って手を合せたが、毒を呷あおぐように飲んでしまった。そしてべたりと、両手をついて、病犬のように、ふらふらと頭を振りながら呻うめきはじめた。すっかり酔よっぱらってしまったのだった。
「あら、酔ったの。可愛いわね。何か、踊って御覧」
　少年は、舌した縺もつれして呻うなるように何か歌をうたいながら、ひょろひょろと、跛びっこをひいて踊りまわった。そして、眩暈めまいがして、叫び声をあげて壁に、ひどく頭を打ぶつけて潰れ込んだ。彼女は、気味悪い程烈はげしく笑い出した。
　少年は、床に頭をつけて、呻うめきながら、明三を指して、女に訊たずねた。
「何だ。何だ……」
「お前の友だちだよ。白痴だよ……」
「一寸ちょっと、俺の手を摑つかんでくれ」
　白痴の少年は、ふらふらと、明三に手をさし延べた。明三は、その指を握りしめた。少年はその掌に、揉みくちゃになった二十銭の紙幣を握りしめていたのだ。茂は、何か言いたそうに彼の顔を見まもって唇を顫ふるわしたが、そのまま床に頭をつけて、睡ね入いってしまった。
「睡ねむってしまったよ。白痴ばかな小犬奴め！」
　女は、薄笑いしながら、呟いた。明三は、然しかし黙って茂の顔を覗き込んで泣き出しそうな情ない歪んだ顔をした。
「どうしたの……」
「何故なぜこんな少年の足あし許もとに、陥おとし穽あなを掘るんだえ。まるで、首に石を結い着けるようなことをして……」
「だって、貴方あなただって、人間の首に締縄を捲まきつけたじゃないの……。何か玩具でもなくちゃ、耐たまらないわ。こんな世の中で……」
　明三は、慄ふるえ上って、冷笑せせらわらった。
「ふん」
　二人は、恐ろしい毒々しい笑を顔に泛うかべながら、相互たがいの顔を見合った。
「それに、貴方あなたは、私の足下に墓はか坑あなまで掘ってるじゃないの……」
「ハ、ハ、……玩具も壊れてしまえば、要らないからね。後は用なし、路みちに捨てられて、人に踏まるるのみ。か……」
　二人は、言いあわしたように同時に不可解な哄たか笑わらいをした。
　彼等は、そこに腹這ったままいろんなとりとめもない話をしている間に、明三は、遂に眠ね入いってしまった。茂は、日が暮れてから眼を覚した。彼は、眩暈めまいでもするように、ひょろひょろと起上って、すぐ潰れ込んでしまった。そして、幾度もがつがつと床に頭を打ぶつけながら両手で掻き挘むしって呻うなった。
　彼は、恐ろしく青ざめた顔をして、舌した縺もつれして何か呟きながら、救すくいを乞うように、女に両手をさし延べた。
「どうしたの、頭が痛い？」
　女は、煩わしげに彼を見ながら言った。
「うむ、うむ」
　そして、自分の頭を指して、両手でかき挘むしった。
「ほうら。これを掌に刺せば、癒なおるんだよ」
　彼女は、気味悪い歪んだ顔をして、手に握っていた錆びた曲った釘を示した。
「痛いよ」
　茂は、顔を顰しかめて呟いた。
「痛いから、さ。だから、癒るんだよ。若もしか、刺させたら、私……、お前を抱いて寝てやるけど……。いやかい」
　女は、蛇のように悩ましい眼を光らせながら言った。
「ほんとうか。それは……」
　白痴の少年は、濁った眼を光らせながら、呻うめいた。
「ほんとうとも……。だから、どれ、手をお出し……」
「ほんとうか……」
　少年は、怯おず々おずと手を差延べて、床の上に置いた。その汚れた、不格好な手は、生物のように床に吸着いた。
「いいかい」
　女は、突然力まかせに、その人差指のつき・・根・の所へ、折曲った錆びた古釘を、つき刺した。蒼黒い血がどろどろと流れた。少年は、頭を揺り動かしながら冷笑せせらわらいした。その手は鞭うたれてでもいるように、ひどく慄ふるえた。人差指は、釘を刺された宮や守もりかなぞのように動いた。彼は、軀からだを慄ふるわしながら、歯をくいしばって耐えた。然しかし、その顔は、ひどく歪んで、かちかちと慄ふるえて齷きしる歯の間から、泣くような呻うめき声ごえが洩れた。
　女は、発狂でもしそうに、烈はげしく笑い出した。
「痛いかい」
「う……」
　時子は、突然釘を抜いてそれを壁に叩きつけると、嚙みつくような声で、茂に呶ど鳴なった。
「白痴ばか！」
　白痴の少年は、傷口から流れ出る血を唇にあてて舐めながら、怖おびえたように声を呑んで、彼女を見た。女は、燃えるような瞳で、彼を睨んでいた。茂は、遂に俯うなだれた。
　時子は、仰向に寝ころんで、暗い屋根裏を黙って見つめていた。少年は、何時いつまでも、投げ与えられるのを待つ犬のように、踞うずくまって、彼女を見ていた。
　長い間を経てから、女は彼を見て叱こ言ごとを言った。
「何だい、お前……。あっちへ、行け……」
　白痴の少年は、殴られた犬のような恨めしそうな眼をして、彼女を見て、唇を慄ふるわしていたが、一言も口をきかないで、暗がりへ出て行った。
　明三は、頭を擡もたげて、凝然じっと彼女を見た。そして、黙ったまま再び枕に顔を押あててしまった。女は、顔をすりよせて、彼の髪を食い切るように嚙かじった。
「此この男を喰い殺して血を啜りたい……」
　彼女は呻うめくように言った。然しかし、明三は何も言わなかった。女は再び顔をあげて、恐ろしく眼を光らせて彼を見ながら、苦しげな溜息をした。
　錆びた釘のような。曲った爪を延のばした、やせこけた黒い手が、喉の上を搔き探る恐ろしい夢に魘おそわれて明三は、眼を覚した。蠟燭の灯は、消えかかって、息つくように青ざめて慄ふるえていた。壁に吸い着いたように、黒い影が跼せぐくまっている。それは、白痴の少年だった。彼は、蜘蛛のように、そろそろと、床を匍はって明三に近づいているのだ。
　明三は、奇怪な興味に唆そそられて微かに睫まぶたの隙から、彼を覗きながら、寝息を立てていた。軈やがて白痴の少年は、息を凝こらして忍び寄って、明三の胸の上に手を翳かざした。刹那、鋭い尖った刄先が閃いた。明三は、胸の上に屈かがめていた手で、強く彼の手を摑つかんだ。少年は、啞おしのように黙り込んだまま、罠にかかった獣のように踠もがいた。明三は、起き上って、刺すように、彼を見つめた。
　茂は、恐ろしく慄ふるえながら、手に持っていた、ナイフのように鋭い尖った青いガラスの破片を投出して、呻うなった。
　突然、時子が飛起きた。
「まあ何て児こだろう。さっさと、出て行ってしまえ」
　そして、明三に握られた少年の手を引ひったくって、突き飛した。茂は、壁につきあたって、どたりと潰れ込んで、喰入るような眼で女を見ていたが、突然大声をあげて泣きながら、暗がりへ走り去った。
　燭灯は、闇の底へ消え陥ちた。
「何故なぜだろう。あの……。
　明三は、独言のように呟いた。
「言わないで……。言わないで……」
　女は、何か喉をしめられたような切ない声で叫んで、彼の肩に抱きついた。そして、強く、強く抱きしめながら声をあげて泣き出した。
　次の日の午後、明三は廃園の空地で地面に指でマドンナの像を描いていた。何所どこからか帰って来た茂が跣足はだしで忍び足に扉に近づいた。明三は、背後から彼に歩み寄った。茂は、跫あし音おとに振返って見て、怖おびえたように逃げ出そうとした。明三は、その肩を摑つかんだ。
「何故なぜだい。お前は、何故なぜあんな事をしたんだ」
　彼は、少年の顔を覗き込みながら言った。茂は、眼に涙をためて彼を見ていたが、黙って俯うつむいてしまった。
「ね、何故なぜだい……」
「お前は、俺の親父を殺したじゃねえか」
　少年は、何か考えながら、眼を光らしてきれぎれに言った。
「それでかい。じゃあ、俺は、お前も殺してしまうぞ」
　明三は、茂の首を締めつけるようにした。
「そうら……。お前は、俺を覘ねらってたんだ」
　少年は、彼の手の中で踠もがきながら、苦しげに叫んだ。
「何だと……」
　明三は、恐ろしい歪んだ顔をして呻うなった。
「彼あの女ひとが言ったんだ。あの男は私を殺すかも知れないし、お前まで覘ねらってる。だから睡ねむってる時殺してしまえ……って」
　少年は、喚わめき立てた。
「彼女あのおんなが……。よし、よし、黙れ、解った。お前はそして、彼あ女れの言う事なら、そんな事で肯きくのか」
　明三は、恐ろしい眼をしてこの白痴の少年を見つめた。茂は、黙って彼を見ていたが、ぼろぼろと涙を流しはじめた。彼は、この少年の肩を抱いて、その頭に顔を押つけて啜り泣いた。
　二人は、地面に踞しやがんで涙を流しながら、抱き合っていた。軈やがて、少年は、彼から離れて言った。
「俺を、宥ゆるしてくれ、俺を、ね」
　そして、一つ頭を下げて室へやの中へ這は入いって行った。
　明三は、呆然、そこに踞しやがんだまま、彼の後姿を見ていたが、そっと、忍び足に這い寄って、室内を覗いた。女は、魔物のように、暗がりに眠っていた。少年は、そこに這い寄って、じっと吸寄せられるように彼女の顔に見入って、そっと釘を刺さされた傷のついた手で、その髪に触ってみては、急いで引込めた。そして、ひきつるように声のない笑いをして頭を揺り動かした。
　明三は、毒酒を唇から注がれるような、悩乱した顔をして扉を離れ去った。そして、疾風のように、走って街へ出た。
　彼は、強烈な悪酒を、毒を仰ぐように呷あおった。そして、頭も、膓はらわたも燃え爛れたようになったその汚ない薄暗い居酒屋の壁の下に潰れ込んで、眠ってしまった。
　夜更けてから、彼は眼を覚してそこを出た。暗い地の上に烈はげしい暴風あらしが吹き荒んでいた。彼は、激しい乱酔の後の悩ましい気持で、Ｏ町の海辺へ歩いて行った。
　暴風は、鞭を振るような恐ろしい叫声をあげて、暗い海の面を打った。浪なみは、呻うめきながら執念な蛇くちなわのように、暗い底から頭を擡もたげた。そして、白い歯を露出して嘲笑いながら、岸の石塁に嚙みついた。
　彼は、戦おののいている暗い岸に浪なみの飛沫に濡れて、踞うずくまっていた。彼には、その暗い底にあの女が呻うめいているような気がした。その生物は、浪なみの姿で暗い底から手をさし延べて、岸をかき探っている。髪を乱した怪異な頭を擡もたげては、慄ふるえながら欷歔すすりなく。明三は今にも、その手の中に総すべてを委ねて、その胸に軀からだを投出して抱かれようと言う想念と戦いながら、わくわく慄ふるえて何時いつまでも、そこに蹲しやがんでいた。
　然しかし、彼は、遂に街へ返って来た。風は呪うような呻うめき声ごえをあげて地を吹いた。街は怖おびえて戦きながら、暗い地の隅に踞うずくまっていた。
　彼は、あてもなく暴風の中の夜の街を彷徨うろついて、遂にＡ町の空家の中へ這込んで、そこで寝てしまった。彼は、次の日の午後になってから、自分の巣へ戻って来た。