血の呻き 中篇(22)

         三八

 暴風は、発狂した獣のような叫声をあげて、狂いまわった。
 めいぞうは、埋立地にそって、断崖のつきる間川下へ歩いて、そこで水際の方へ降りた。そこには、老爺おやじの話したまるぶねが岸へ上げられてあった。
 川水は、おびえたように、暗い夜空の下で騒ぎふるえていた。彼は、尖った石で縄を叩き切って、すっかり浸水をかえた。そして、折れたかいで岸を離れて、漕ぎ出した。
 暴風は吹き募って、舟はその度に揺いで吹き流された。しかし、幸い対岸の方へ吹きつけていたので、彼は流されながら、一つの曲角を過ぎた時、対岸のかつよう(※)こうよう)の樹林に着いた。彼は、舟を、岸の草原の中へ引き入れて、林の中へはいって行った。
 もう、夜明方近かった。木々は騒がしくふるえていた。落葉の啜り泣くような音が地を打った。歯を鳴してうめくような、木立の枝の軋る音が聞えて、その度に、何かの鳥が悲しげに羽搏はばたきして鳴いた。
 落葉の腐蝕したような土の上には、何かの小さな草が生えていた。彼は、長い間そこを彷徨さまよっていて遂に、大きなならの木立の下に、うずくまって何か考えていたが、そのまま木の根に頭をあてて、眠ってしまった。
 午後になってから、一度明三は眼覚めた。
 彼は、ポケットを探って、酒壜をとり出した。そして、それを飲みかけたが、ふと気付いて左の衣嚢ポケットから紙包をとり出してみた。それには、二個のかん麵麴パンと草花の模様のついた、女持の腕時計があった。明三は、時計をあけてみた。するとそこへ小さく折畳んだ、五えんの紙幣が落ちた。時計は二時をすこし過ぎていた。彼は、そっとそれを耳へあてて、音を聞いてみた、女のふるえている心臓のように、微かな音を立てていた。明三は、そっと、その草花の模様に接吻してから、また。衣嚢ポケットの中へ押込んだ。そして壜から口うつしに、ウヰスキーをあおった。
 そして、紙幣を拾いあげて、またポケットへ納めた。
 嵐は、嗄れた声で叫びつづけ、木木は、おどおどと地にせぐくまっていた。落葉は、雨のように降りそそいだ。彼の敷草には、名もしらない小さな白い花が咲いていた。
 彼は、ものうげに眼をひらいて梢から洩れて来る灰色な佗しい光りを見ていたが、そのうちにまた眼をつぶってうとうと・・・・と疲れきった人のようにってしまった。
 再び、眼覚めた時は、もう夜に入っていた。暴風は、地の蔭に声をひそめて、僅かばかりの空地には、梢の間を洩れて来る青ざめた月光が、水のようににじましていた。
 林は、黙然として奇異な静寂が、深い湖の底のように淀んでいた。彼は、立上って歩き出した。
 長い沈黙に疲れたような、木立の微かな歎息がした。彼は、幾度も立止って息をひそめてみた。彼は、遂に河岸へ出た。
 水は、すべての朽葉の蒼血を吸って、それが淀んででもいるように重く暗く沈んでいた。木々は、物思わしげにもたれかかりあって、水の面を覗きながら、黙然としていた。梢にからみ着いていた落葉が、抜毛のように音もなく落ちて来た。
 彼には、何か死んだ朽葉の気配でもしたように思われた。
 そこには、灰色なひょろ高いしらかばの木立が、やみおとろえたもののように、頭を垂れていた。彼はその下へ、舟を置いたのだった。
 彼は、長い間、遠い対岸の方を見ていたが、遂に林に別れをつげて舟を出した。
 明三を水に舟を任せ、舟に身を委ねて流れを下った。月の光りを含んだ、青白いさざなみは、ふなべりに吸い着くような、微かな音を立てた。
 明三は、うろ覚えなアイヌの舟唄を、低声に唱い出した。それは、彼がかつてオホツク海沿岸の、ある湖畔の村で、暮した時、習ったもので、この半開民の女達は、まるぶねを漕ぎながら、悲しげな沈んだ調子のその歌をうたうのだった。
 青ざめた月光は、欷歔すすりなきのようなふるえる歎息をしているらしかった。
 彼の胸には、また深い水のような沈んだ憂愁が、襲って来た。
 林を抜けると、舟は断崖の下の暗がりを流れた。その時、冷たい息吹のように、霧は、地の上に襲って来た。地上は、灰色な掩布(※)に包まれて、月光は、その中に微かに滲んでおののいた。
 舟は、暗い水の上、灰色な霧の中を、ものうげに果てしもなく流れた。
 彼には、まる一夜も暗い霧の中を流れ歩いたと思われる頃、辛うじてクチアン(※倶知安くっちやん)の町から二マイル離れたヒラフ(※)の鉄橋に来た。彼は、そこで舟を捨てて、岸に這い上った。そして用心深く線路を使って、そこから、一マイルばかりのヒラフというほとんどあの高い死火山の中腹の、五六戸の人家よりない小駅に辿り着た。彼は、ひどい長い旅をした人のように疲れきっていた。
 小さな駅は、寂しく空洞がらんとして黄色っぽい、薄暗い電灯が、その寂しい待合室を照していた。
 彼は、そこへはって行った。
 ハコダテ駅行の上り列車が通過するまでには、まだ二時間近くあった。埃のかかった駅の時計は午前四時に近かった。空洞がらんとした待合室には、頭から黒いがいとうの頭巾を被った男が、ただ一人隅の方に坐って、眠っているらしかった。彼は、茫然しばらくそこに立ってその男を見ていたが、疲れきった歩調で壁の下の椅子の隅の方へ歩いて行って腰を降して、衣嚢ポケットから時計を、出してみた。細い指針は悩ましげに動いて、何か、ささやくような音がふるえていた。ほんの二分ばかり、駅の時計に遅れていた。彼は、それを再び衣嚢ポケットに入れて溜息をついた時、向うの暗い隅に、影のようにうずくまっていた男が突然声をあげて、彼の方へやって来た。
「やあ、兄弟!」
 明三は、おびえたようにあと退ずさりながら、彼を凝視して、微かな叫声を立てた。
「ああ、貴方あなたは……」
 それは、四人の連れといっしょに地獄を逃げ出した木のこぶのような顔の監視者であった。
「兄弟も、彼所あそこを出て来たのかい……。そして、何所どこへ行くんだえ」
「ハコダテへ」
「どんな風で出たい」
「舟で……」
「へえ。うまくやったものだ。俺たちあ、とんでもねえ山の中へ迷い込んじまって、三日目に、駅へ出た。所で、誰一人金はなし、みな死ぬ程も、腹がっているし……。その間、何も食わないで、歩き通しだからな。ほら、あの通り襯衣シヤツ一枚きりさ。ようやく、皆の金を集めて、二銭……それも、源が一銭五厘と、広瀬が五厘よ。それで、おからを買って、豚のように食ったんだ。そして、そこで皆お別れだ」
「ほう。そして貴方あなたは……」
「俺は、K町で石屋の家へ、雇われた。今日も、その事で、この石山へ来て、日を暮してしまったんだが……。ほかの奴等は、どうなったか……」
 その男はそして、も一度しみじみと懐しそうに、明三の顔を見つめた。
「兄弟のように、何もかも解りきってる人間は、騒がないんだが……。俺等は、みじめだぜ。あのほら、足のちぎれた奴は、この町まで這って来て行路病者救護所にはっていたんだが……」
 彼は、一週に一度巡廻の警官に、自分の足の事について何か言い出そうとした時、ひどく叱られてとうとう・・・・それっきり黙り込んでしまった。そして、そこをほうり出されてしまって街を彷徨うろついていて、自分を支えている事も出来ない程、すっかり腹がってしまって、浮浪のらいぬのように、路傍の空屋の軒の下で死んでしまったのだった。
「それは、……」
「いや、彼も可哀想だったが……。まだまだ、ひどい事もあるんだ……。あのほら、川口よ」
 それは、頭へつるはしを打こまれて死んでしまった奴だった。その屍は、K橋へ来て引かかった。警察医は、その屍を解剖して、死因については何のやましい所もないと断言した。これほど明瞭な傷だ。何のやましい事がないものじゃない。その屍は、ただ普通のもののように仮埋葬されたのだった。
 この、立派な人々の間には、人夫など、死んだ犬程の価値もないものだという、一致した人生観があったものらしい。事実、どんな浮浪者でも、遂ぞ犬以上の取扱いを受けたろうとは、考えるのも難かしい事だった。
 別な屍は、手足を縛られて、全身打撲傷で、めちゃめちゃになっていた。しかし、この人間もただ「面倒な死人」として、雇主の手に引渡されただけの事だった。恐らく、其奴そいつは自殺した事だろう、自分の手足を縛りあげてから、めちゃめちゃに自分を殴りつけたり、頭へつるはしを打込んだりして、自分のからだが、自分自身に役に立たなくなれば、きっとこの犬共はそんなつまらない悪戯をして、自分を殺してしまった事だろう。
 そして、ていねいに自分の首へ石塊まで結びつけて、川へ投げ込んだりした事に、違いない。
 警察医とか言う立派な人たちは、メスでその皮をめちゃめちゃに、するめのように引裂いたり、ピンセットで頭の中を搔きまわして、ひょっとしたら、そこに血や肉の代りに、埃か、襤褸ぼろでもこの奇異な動物には、入っていやしないかと、探した事かも知れない。
 何と言う、さとりすました偉い人たちだろう。
 そればかりじゃない。皮肉な屍は、川へなぞ自分をほうり込まないで、丘を超えた百姓の土地へ、あなを掘ってり込んでいた。そんな奴も、二三人もいた。その土地を持っていた百姓は、秋耕の為にかけていたブラオの端に引かかって、その連中が出て来たのを見ると、道具も何も地へ投飛したまま町へ来て、その土地を売飛して、何所どこかへ行ってしまった。屍は、きっと冷笑せせらわらっていたことだろう。
 その男は、眼前に敵でもいるかのように、皮肉に言った。
「俺等は、どうかこうかして、彼所あそこを這い出した。また見つけた屍も、それでよかろうよ。しかし、あのほら、トンネルの中のはかあなの……」
 彼はいいすくんだ丁度その時、H駅どまりの下り列車がはって来た。
「じゃあ、さよなら。健在たっしやで暮しねえ。そのうちにまた、会おうぜ。姉御も、可愛がってね……」
 その男は、薄笑いして彼に言って、汽車に乗り込んだ。彼は、ただ一人暗い待合室に残されて、宛然さながら胸をしめられるような、悲愁に閉されていた。
 しかし、三十分経たないうちに、上り列車が来た。彼は、椅子を立上って、そこからすべての同僚たちに、さよならをした。死んだ人々にも。
 しかし、時子にだけは、ふと考えて口を噤んでしまった。そして、衣嚢ポケットの中で、固く時計を握りしめて汽車へ乗り込んだ。