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第55節

 芥川氏や菊池氏や久米氏が夏目門下であるということは、興味の多いことであったけれども、しかし私には、あの人達が夏目氏の芸術の系統をそのまま趁(お)ってでてきたとは何うしても思われなかった。そういう人達でも、一方鷗外漁史の感化を沢山けnに受けているらしかった。
 鷗外漁史の蔭武者である『スバル』が、自然派に対してかなり有力な戦を戦ったことは、それは争われない事実であった。そこからいろいろな作家が出ると共に、それと連絡を取っている三田文学からもいろいろな作者が出た。そしてそれが早稲田から出た作者達と雑り合うような形になった。そして氷炭相容れないようなものがいつか互いにその長所を取り合って、てんでに自己の位置を築き上げた。
 自然派の後期に当って、別に一つ大きな流れができたが、それが享楽主義と悪魔主義(※耽美主義?)とを雑ぜて、次第に平板に落ちた自然派の欠陥へと突入して行ったのである。潤一郎氏の作品が一時盛に世間に迎えられたのは、そのためであった。
 鷗外漁史の影響は、しかし何処まで行っても学者的であった。いろいろなものを取入れることと新しいものを紹介することをかれは好んだ。従って芥川氏などがその最初の作風を夏目氏から得ずに、かえって鷗外氏から得たのも面白い現象のひとつであった。菊池氏の歴史物や仇討ものなどは、全く鷗外氏の模倣と言って差支なかった。
 谷崎潤一郎氏も『麒麟』や『刺青』を書いた時分には、夏目氏と鷗外氏と両方からその影響を受けたような形を見せていたが、最初に夏目氏を離れ、次ぎに鷗外氏を脱却して、次第に自己特有のスタイルとカラアとを見せるようになって行った。
 この間に挟って、夏目氏の門下と言われた人達に多少の活躍がある。森田草平氏や、鈴木三重吉氏や、小宮豊隆(※ドイツ文学者。漱石に師事。三四郎のモデル)などが即ちそれである。草平氏の『煤煙』は何方かと言えば、自然派に対してわざと反抗したような心持と気分とで書いているけれども、しかも漱石の傾向とは全く異っているものであることは誰にもわかった。それに、いくらか風葉の系統を引いているので、文章などにも絢爛なところがあると同時にいくらか古いところがあった。これに比べると、三重吉氏は全く感じを異にしていた。おそらく氏は『ほととぎす』の写生あたりからその細かさとその美しさとを持って来たであろうと思われた。それに、氏はフランスのテオヒル・ゴオチエあたりを愛読してその感化を受けた。古くはなかったけれども、何処かロマンチシストらしいところがあった。かれの『全集』の中には、すぐれたものがかなりに沢山にあることを私は知っている。
 小宮豊隆氏も一時狭斜を材料にした小説を書き出したが、余り深くまで行かずによして了った。惜しいことだと思った。それから、夏目氏の系統に属すべきものの中に、野上弥生子(※小説家。フンドーキン醤油の創業者・小手川金次郎の姪=兄・常次郎の娘)がある。この作者は今では唯一の閨秀作者と言われ得る位置にある。余りに多く作をしないことと、出したものに非常につまらないもののないこととがその声価をいつまでも保たしめている尊敬すべき女作者であることは言うを待たない。しかし、惜しいことには、この作者には深みがない。深い透徹と深い理解と深い浸入とがない。世間とレベルを同じうしている。つまり世間並である。従ってわかりはいいけれども、また面白味も割合に沢山にあるけれども、何うも平凡である。夏目氏の影響をそれとなしに受けているためだと言えばそれまでであるけれども、あの才と文とを持って惜しいと思わずにはいられない。もっと自由になっては貰えないだらうか。余所行きの着物でなしに不断着にはなって貰えないだらうか。世間のことなんかは何うでもいいから、もっと本当の女の心持になって貰えないだらうか。『海神丸』などは、骨を折ってはあるけれども、それがお話と世間並との程度であったために、無駄骨を折ったことになりはしなかったか。また一昨年の女の生活を書いた作にしても、うまいにはうまかったけれども、やはり中途半端な、お話をきいた程度以上深いものに接することができなくありはしなかったか。ある人に言わせると、それはそういう風に望むのが間違っている。あの作者には、通俗なところをただ望むべきである。つまりイギリスあたりの女の作家のやったことをただ望むべきである。本当のことは、とてもあの作家には望むことはできないと言っている。しかし私はそうは思いたくない。またそうは信じたくない。あの落付いた、静かなところを押して行ったら、もっと本当なところが出て来はしないかと思っている。本当の女の苦しみをきくことができると思っている。
 夏目氏の門下の人達とは、その形も心持も違っていたけれども、しかも『スバル』に拠った人達の中からも、自然派に対抗して、いろいろな気分と心持とを湧かせて行ったことは事実であった。江馬修(※小説家。ベストセラー『受難者』)などもそこから出て行ったひとりであった。
 享楽派の起ったのはそれは何ういう形から起って来たか。自然派のあの解剖に労れたためか。また、ああいう風に物をむずかしくばかり見る必要もない、もう少し面白く見たって差支ないという心持がいっとなしに作者の心の中から起って来たためか。それとも単に今までのものに対して起って来た反動か。それはそういう形もあったであろう。しかし、私の考では、そうした運動に最も有力であったのは、作者が次第に性の中心に触れて行く年齢に達したためではなかったか。作者も次第に年を取って行ったために、性のことについても本当に面白くなって行ったためではなかったか。
「そうだね、ようやく、この頃、女のことも書けるようになった。漸く一人前になったわけだね?」
「本当だよ。そういう境を書きたい書きたいと思いつつやって来たよ。紅葉山人の『三人妻』などという作を見た時にも、どうかして時分も一度はああいうものを書いて見たい。ああいう境涯を筆に上せて見たい。こう思ってコツコツ書いて来たが、今、やっとここまで来たという気がするね。もう誰にも押しも押されもしないよ。全く人生に触れたよ」
 こんなことを誰も彼も言ったことを私は覚えている。私達は──否、むしろかれ等は、その時にして初めて性を透しての人生を知ったのである。つづいて今まで一生懸命に保持しているものの金であるか石であるかそれともまた瓦であるかをはっきりと見たのである。「何んだ……馬鹿々々しい、今迄こんな事のために大騒ぎをしていたのか……?」こうした言葉がひとり手にその口に上って行ったのである。別言すれば、かれ等は始めてその先きをはっきりと見たのである。峠に近いところまで歩いて行ったのである。そしてほっと呼吸をついたのである。