血の呻き 中篇(18)
三四
彼等が、帰って行った時、時子は、扉に靠れて立っていた。靴修繕師は、人々の一番後について、隠れるようにして歩いて来た。
女は、何かを探し索めるようにじろじろと人々を見ていたが、その中に交って、俯れて歩いて来た明三を見ると、慴えたように立竦んで、微かな叫声をあげた。
「ああ……」
そして、二歩ばかり彼の方へ歩み寄ったが、後退りして、わなわなと慄え出した。
明三は、ちらと彼女を見たが、何も言わないで、そこに立止って人々を通り過した。
「何だい。お前は……。癲癇が起きたのか……」
ヴルドッグは、彼女に言った。
女は、泣くような歪んだ顔をして、ぎらぎら光る眼で明三に吸い寄せられるように見入っていたが急に、両手で顔を掩うて、身を翻して走り去った。
明三と、靴修繕師とは、最後の列に立って再び恐ろしい沈黙の中に、眼を見合した。靴屋は、今にも飛びかかろうとでもしているように、苦しげな息を吐いて、呻いた。然し、明三は、黙って胸の上に頭を垂れてしまった。靴屋は、痙攣るように戦慄して、彼の方へ手をさし延べた。
明三は、顔をあげて、憂わしげにその男を見た。そして、弱々しく手をさし延べて、その指を握った。彼の手も、まるで木の葉かなぞのように慄えていた。
この奇妙な握手を、二人は恐ろしく黙り込んで、何の意味だか、その時相互に明瞭に了解し得ないでいた。靴屋は、然し、直ぐに慴えたように手を引いて、彼から離れ去って、もう一分間も速くこの男の見ていない所へ隠れようとでもするように、急ぎ足に人々の中へ紛れ込んだ。明三は、その男を見もしないで、復た自分一人の悩ましい物思いの中に沈んだ。
それから、まだ三十分と経たないうちに、時子と靴修繕師との姿が、部屋の中から消えてしまった。
「女が、いないぜ……」
焼け爛れた顔をした監視者が喚き立てた。
「いない」
「あいつは、然し自分の足で、此所を逃げ出す筈がないんだが……」
梟は、重苦しい声で言った。
「何故だ。お前に惚れてでもいてか……。娑婆の何所にでも、お前よりもうちっといい男がうようよしてるぜ!」
老監視者が、薄笑いしながら言った。
「じゃあ、お前は、逃げたって事が解ってるのかい」
梟は、眼を光らして腹立しげに叫んだ。
何もかも、倒にひっくり返されて、探された。然し、何所の隅に女が落ちている訳はない。
ヴルドッグは、鼻を鳴して歩きまわったが、どこにも、そんな臭いもしなかった。然し、彼はもう一つの事件を嗅ぎ出した。
「靴修繕師が、いねえ」
「おや、あの破靴奴……」
顔のやけただれた監視者は、呻るような声を立てた。
「これはもう、それに相違ない。彼奴は、怪しかった。その馬鹿に聞いてみろ! そいつは、何か知ってるだろう」
年とった監視者は、忌々しそうに言った。
「お前、あの靴修繕師を、知らないか」
ヴルドッグは、歯を鳴して噛みつくように、明三に言った。明三は、気難かしげに答えた。
「知ってるよ」
「知ってる……。どこへ行った」
彼は、摑みかからんばかりに手を延べて呶鳴った。
「そんな事、解るものか。どこか、あいつの好きな所へ行った事だろう……」
「好きな! こら、こら! 貴様、……」
ヴルドッグは、飛び上った。
「おい。ばかだなお前は……。その馬鹿に関ったって、何が解るもんだい。止せよ」
梟は、彼の腕を摑まいた。
「ハ、ハ、ハ……」
ヴルドッグは、苦笑いして、明三を離したが、今度はその監視者にせかせかと言った。
「じゃあ、すぐ、すぐ、追かけなくちゃ……」
四人の監視者は、鷲のように飛んで行った。
後に残った梟は、皆の前に立はだかって、喉一杯の声で呶鳴った。
「些とでも、動いたら蟇共……。ぶち殺してしまうぞ」
然し、誰も動きはしなかった。皆七面倒な思いをして、もうぼろけた自分の軀を曳ずって行くよりは、突然もち上った興味あるその事件の、経過を知りたがった。で、皆、お互の顔を見合いながら、その事に就てひそひそと咡き合いながら、何かを待っていた。
三時間の後に、彼等は工事用の針金で縛られて、曳ずられて来た。女は、めちゃくちゃに殴られて腫れ上ったような、不気味な赤裸の体で、断えず身を悶えながら、嗚咽った。靴屋は、ひどく殴られて、もう口も利けない程弱っていた。そして、ふらふらするような不気味な眼を光らしていた。
「何所に、いた……?」
梟は、ヴルドッグに訊ねた。
「なあに、この馬鹿どもは、線路敷地を歩いてやがったんだ」
女は、土間へ投出されると、地面へ頽れ込んで、声を立てて泣き出した。彼等は、その両足を針金で縛って、素裸にして梁へ倒に吊しあげた。
「此奴を、この曲った根性骨(※土性骨と同じ)が粉になる程、打のめしてやれ……」
倒に吊されて、その髪は乱れて地につく程たれた。彼女は、惨めな忌わしい獣のように、その赤裸の体でもがいた。ヴルドッグは、スコップを持って、いきなりその背中を一つ殴りつけた。
「まて、まて。俺が此奴を料理してやる」
恐ろしく顔の焼け爛れた監視者は、焚火の中ヘスコップの尖端をさし込んだ。
女は、二度ばかり頭を動かしたが、死んだもののように倒に手を垂れてしまった。
監視者は、真赤に焼け爛れたスコップを持って来て、いきなり彼女の右の大腿にそれを押あてた。
女は、悲鳴をあげて、尾を吊された宮守のように軀をうねらせて踠いた。恐ろしい鏝をあてられた所は、音をたてて焼け爛れ黄色い咽るような臭い煙が痙れあがった。
この醜い顔の監視者は、宛然発狂者のような、奇怪な声を立てて顔を歪めて笑った。それを囲繞した監視者等も、痙攣的な笑声をあげて、軀を揺り、或者は呻き声を立てた。
明三は、締木にでもかけられたように呻いて、ふらふらと監視者等の側へ、近寄った。
「それは、いけないよ」
そして、怯々と言い出した。
「何が、だ……」
ヴルドッグは、吼えるように呶鳴った。
「お前等のやってる事は……」
「じゃあ、どんな事が、いいんだ。馬鹿奴! 自分の背中を要心しろ!」
「だって」
「引込んでろと言うのに。殴られるぜ!」
「お前等のそれは、持ちものじゃないのか……」
「然うよ。だから、俺等の勝手じゃねえか。焼いてくったって、皮を剝いで乾したって、些っとも関った事じゃねえ」
「然うさ。それは然うさ。然し、それは、誰に損をかける事になるんだえ……」
明三は、凝と詰るようにその人々を見た。
「ハ、ハ、ハ…」
皆黙り込んだ中に、年老った監視者は力なく笑って呟いた。
「此奴はまったく、……。馬鹿の癖に、うまい事を言やがる。それに、違いねえよ。此女を、俺等あもう些しの間大事にしなくちゃいけねえ」
梟は、黙って彼女を吊してあった針金を解いてしまった。女は絞首架を降された者のように、地面に頽れ落ちた。そして気狂いのように、そこに立っていた明三の足に抱きついて大声をあげて泣きながら接吻した。彼女はそのまま彼の足に顔を押あてて気絶してしまった。
「この、気狂い女は、馬鹿の足を甜めてるぜ……」
梟は、忌々しそうに言った。
「いや、そいつに関うな。この馬鹿は、きっと何うかする事だろう」
年老った監視者は、深い落着いた声で言った。明三は、女の顔の所に跪いた。
靴修繕師は、殆んどその軀を露出されて、ぼろぼろに破られて土間の隅にへたばっていた。その背中は皮が剝げて、宛然皮を剝がれた蛇のように、物凄く慄えていた。すっかり、顔の相好が潰れて、血の出る程も強く唇を嚙みしめていた。
その、殆んど視力を失った眼は気味悪い、然し臆病な異様な光りで、そこらの物象の上を、ふらふらと彷徨いた。時々、ひどく鞭打たれた馬車馬のように胴慄いして、歯をかちかちと鳴しながら、長く呻いた。
梟は、その側へ歩いて行って、その歪んだような頭を踏みにじりながら、低い嗄れ声で、言った。
「今度は、汝をずたずたに引破いてやる」
彼等は、此男を再び戸外へ曳ずって行って、その首に煉瓦を結びつけた。そして足に三碼位いの針金を結つけて、その端を埋立場の杭に結んで、この男を川の中に投り込んだ。
彼等は、その事に就て、もうサアド侯爵以上の奇怪な生物になってしまっている。もう潰れてしまった、死にかかった宮守を、執拗く虐む小児のように、執拗にそこを囲繞いた。
靴修繕師は、水の底で跪いて、石に摑まってのろのろとその頭を、黒い水の底から差延べて、這い上って来た。黄色っぽい、カンテラの灯光の流れが、此凄惨な場景を照した。
「出た、出た。畜生! 殴れ、殴れ……」
彼等は、恐ろしい杖を持って、それを待っていたのだ。で、喚声をあげて、めちゃめちゃにその頭を殴りつけた。靴屋は、異様な呻声をあげて、また水の底へ沈んで行った。
然し、彼は、まもなくひどく潰れて血の湧き出る気味悪い頭を擡げて、出て来た。
杖は、暴風のように、その頽れた肉塊を襲った。彼は、重々しい呻声を立てて、踠きながらのろのろと水の底へ沈んだ。そして、ほんの三分も経たない間に、またその気味悪い頭を擡げて来るのだ。
四度目に這い出て来た時は、いくら殴られても、唯のろのろと頭を、動かしながら岸の杭に攫まっていて、まるで肺の破れるような声で、叫びはじめた。彼等は、めちゃめちゃにもう自分が何をしてるかも解らない位いに、息を切らしながらその頭を殴りつけた。然し、彼は執拗にその杭を離れないで、泣声で叫び立てた。
「畜生! こら、こら……」
ヴルドッグは、その頭を杖で突きながら押したが、それでも離れないで喚くのだ。
「その喉を、叩き潰してしまえ」
誰かが、粘ったような声で叫んだ。梟は、焼酎瓶の破片を彼の口の中へ押込んで、顔と同一にして石塊で殴りつけた。尖った硝子の破片は、唇の中で釘のように砕けて喉につきささった。靴修繕師は、叫声も立てられないで、力なくその手を離した。そして、もう自分の力ではなく、唯屍の重さでのように、水の底に沈んで行った。そして、長い間水は死んだもののように静まった。
「死ばりやがった。畜生! 魚に鱈腹御馳走してやれ! ひ、ひ……」
梟は、低い声で呟いた。彼等は、痙れあがるような笑いをして引返そうとして、も一度その暗い水の底をカンテラの灯光で、透してみた。その時、あの気味悪く潰れた頭は、執拗な死にきれない蛇のように、またのろのろと水面に泛び上って来たのだ。その唇は、まだ硝子の破片を吐き出す事も出来ないで、腫れ上った血みどろな口を歪めて膨ませていた。水の上へ跼まり込んで覗いていた、二人の監視者は、叫声を立てて後退りした。誰も、声も立てなければ、手も出さなかった。その頭は、岸に這い寄って来て、爪を立てて、土に摑まった。梟は杖でその顔を突いたが、彼は、硝子を含んだ歯で、がりがりと気味悪く杖の尖端にかみついた。梟は、杖を離してしまった。その間に彼は、のろのろと地面へ這い上って来て蛇のように匍いながら、恐ろしく腫れた頭を地に曳ずった。そして、殆んど死んでしまった眼で、青ざめた灯光を見た。
顔の焼け爛れた監視者は、重苦しい歩調で歩み寄って、持っていたスコップで、その頭をひどく殴りつけた。鋼鉄の、砕けかかった骨にあたる音が、不気味にがんがんと響いた。彼は、のろのろと頭を動かして、その打擊を些しも感じないように、恐ろしい眼で、じっとその男を見た。
梟は、自分を制える事が出来なくなって、尖った石を持って行って、めちゃめちゃにその頭を殴りはじめた。ごつごつと言う重苦しい音がする度に、靴修繕師はのろのろと手を動かした。然し、その手は、もうすっかり自分の頭の置所を忘れて、唯死にかかった蛇のようにのろくさと地面を慄えながら這いまわった。
顔の焼け爛れた監視者は、スコップの尖端で、その膨れ上った腹を突いた。靴修繕師は硝子の破片の交った血嘔吐を吐きながら、異様な声を立てて呻った。
「ぐえ、ぐえ……」
誰も一言も、口をきかなかった。
腹は遂に破れて、血みどろな臓腑が異様な臭気を立てて、その傷口からスコップの尖端に粘着いて出て来た。
「ひ、ひ……」
焼け爛れた顔の男は、喉を鳴して笑った。そしてもう唯の泥濘をでも突くようにして、めちゃめちゃにその腹を突き破ってしまった。
梟は宛然、その頭が歪んでしまう程も石で叩き潰してしまった。
この惨めな靴修繕師は、誰も知らない間に、彼等が狂人のように自分の軀を虐み破っている間に、息が絶えてしまった。踠き続けていた手が、何時の間にか動かなくなると、二人の監視者は、怯えたように同時にその屍から飛去った。屍はもう、二目と見られない恐ろしい形をしていた。その眼球は引抜かれたように顔の上に露出して、歯を露出した唇には、血と泡とが粘着いているのだ。潰れてしまった頭は、頽れ爛れた、不気味な果物のように、転がっていた。破られた、腹から出た膓は、血みどろな生物のようにぬらぬらと地面に溢れていた。
青ざめた灯光が、慴えたように戦きながら、此屍を滲した。
彼等は、遠くの方から此恐ろしい死態の屍を見ていたが、そのままそこへ投って置いて、部屋へ帰って来た。そして、ひどく焼酎を呷って眠ってしまった。
明三は、炊事番の老爺に手伝わせて、女の傷の手あてをしたり、着物を着せたりした。そして、それがすむと、不安そうに彼女を抱きあげて、その顔に見入りながら醒めて来るのを待った。女は、明三の腕の中で蘇生した。彼女は、炎のような眼で明三の眼を見て、また泣き出して身を踠いて、逃れようとした。然し、明三は彼女を強く抱きしめた。彼女は、慄えながら、何だか訳の解らない、舌縺れした言葉で、早口に何か呟いて、彼の胸に顔をあてた。
「宥して、……宥して……」
唯きれぎれに、その言葉だけが彼の耳に入った。彼女は、すっかり、悩乱しきって、明三の言う事は、一つも聞きわけられなかった。明三は、まるで小さい女児ででもあるように、彼女の髪を撫でては、その額に接吻して、背を擦ってやったりした。
彼は、暫く一つ言を繰り返して彼女の耳に咡いたが、女が何も聞き取れないのだと言う事を覚ると、もう口をきかないで、唯彼女の熱に魘われたような訳も解らない言葉にうなずいて自分も涙を流しながら、女の顔から幾度も涙を拭ってやった。
時子は、彼の顔を貪るように見入っては、その手を接吻して、また嗚咽ながら、何か言いつづけた。
終いには、もう黙ってしまって、唯啜泣いてだけいたが、彼の胸に抱かれたまま、激しい心の悩乱と肉体の窘迫とに疲れきって、不安な睡りに陥ちて行った。苦しげな寝息を立てはじめるとすぐまた不安な譫言が、彼女を囚えた。
「私は、私は、貴方が怖くて、もう、もう、貴方を、殺してしまいたかったの……。ずうと見えない所へ、逃げて行きたかったの……。けれど、……」
女は夢の中で、咽び泣いた。
「皆、いけなかった。皆……。宥して……、ね、宥し……」
時子は、睡りの中で耐えがたい苦悩に虐まれながら、泣き詫びた。明三は、惑乱した、暗い顔をして彼女を見ていたが、そっとその唇に接吻して、何か弱々しく呟いた。