血の呻き　中篇（21）

　　　　　　　　　三七

　その夜を、彼は、殆ほとんど眠らないで、明あかした。次の朝、まるで死人のような青ざめた顔をして、何時いつまでも床を離れないでいた。
「どうしたい……」
　年とし老とった監視者は、彼の顔を覗き込んで言った。
「頭が痛いんだ。もう些すこし、寝ねせといてくれ」
「然そうか。じゃあお前癒ったら、出て来い」
　彼は、黙って点頭うなずいてまた床に顔をつけた。彼等が行ってしまうと、すぐ女がやって来た。
「どうして……？　あなたは……」
「僕あ、頭が痛いんだよ。関かまわないで置いてくれ」
　明めい三ぞうは、哀訴するように言った。女は、そこへ膝をついて、悩ましげに彼を見まもった。
「何故なぜ、そんな事を、言うの」
「…………」
「ね、私に言ってくれても、いいでしょう」
「あのね……」
　明三は、沈んだ声で言い出した。
「僕あ、此所ここを出るよ」
「出るって……。だって、あの人等たちは、承知しやしないよ」
「逃げてさ……」
「何時いつ……」
「今晩でも……」
　女は、悲しげに、頭を垂れた。
「どこへ行くの、貴方あなたは……」
「出て見なきゃ、解らないよ」
「あの街へ、帰るんでしょう」
「…………」
「あの娘さんの所へ……」
「…………」
「あの娘ひとは、死んだんじゃない……」
「死んだかも知れない」
「どうしても、行くの……」
「行くよ」
「どうしても……」
「私を、捨すてて行くの……」
　明三は、苦悩に歪んだ顔をして、自分の頭髪を引ひき挘むしった。
「ああ……」
　女は、彼の手を握って、叫ぶような声を立てたが、急にその手を離して立上った。
　然しかし、すぐにまた跪ひざまずいて、両手で彼の肩を抱いて、燃える炎のような眼で、彼を見た。女は、そしてぶるぶる慄ふるえながら、彼の髪に接吻しようとしたが、急にまた手を離して立上った。
　彼女は、そこへ立たち竦すくんで、両手をとりしばって呻うめくような呼吸をしながら彼を見ていたが、突然躍りあがって走り去った。そして、自分の室へやへ這は入いると、いきなりそこへ泣き伏して、軀からだを慄ふるわしながら啜り泣いた。
　明三は、ふらふらと立上った。彼女の方へ二歩ばかり歩いて行ったが、すぐまた弱々しく立止って、自分の壁の下へ引返してしまった。そして、悩みに乱れて茫然とした眼で、怯おど々おどとそこらを見まわしていた。すぐ彼の側の、壁に靠もたれて、老爺おやじが立っていた。
「爺さん、僕あ・行くよ。此所ここを……」
　彼は、慴おびえたように、老人に話かけた。
「それは、それは……。そうしなさい。此所ここはお前のような人の、いる所じゃねえ」
　老爺おやじは、溜息を吐いて、叱るような声で言った。
「じゃあ、さよなら……お爺さん」
　彼は、老爺おやじの手を握りしめた。
　老爺おやじは、しみじみと彼を見たが彼の耳に唇をあてて長い間咡ささやいた。
　そして、一つ頭をさげて、行ってしまった。彼は、立上った。時子は、恐ろしく青ざめた顔をして、出て来た。
「行くの……。どうしても……」
「行くよ。時さんは……」
　明三は、悩ましげに言った。彼女は、顔を反けて鳴咽むせびないた。強くまるで鉄の鎖かなぞのように、恐ろしく彼の肩を捲まいて、抱きしめて、狂おしげに彼の唇に接吻した。
「私に、私に、も一度、唯ただ一度、帰って、おくれ。ね……」
　明三は、黙って彼女の指に接吻して地面へ跪ひざまずいた。
「私を、宥ゆるして、おくれ」
　彼は、殆ほとんど鳴咽むせびなくような声で言った。女は、声をあげて泣きながら、
「どうしても、どうしても……、行くの」
　明三は、暫時しばらく黙っていたが、臆病らしく言い出した。
「僕はほら、彼所あそこに……夜中までいるんです」
「そう、そして……」
「もう、聞かないで、おくれ」
　明三は、彼女を離した。女は、軀からだを慄ふるわしながら、そこへ頽くずおれて泣いた。彼は戸外へ出てすぐ窓の下に積みあげてあるセメント樽の蔭へ身を秘めた。
　果てしもなく長い、不安な一日がたって、人々は仕事から帰って来た。日が落ちると恐ろしい暴風が地の上に襲って来た。監視者等たちは、勿もち論ろん彼が消えてしまったので走り出した。然しかし、彼等は、四時間の後に唯ただ、絶望と疲ひ憊はいとだけを脊せ負おって、歯がみしながら、帰って来た。
「いなかったの……？」
　女は、弱々しい声で、彼等に訊たずねた。
「消えて、しまやあがった・・・・・・・。彼奴あいつはどうも、どこか大した警察の探偵イヌででもないかな」
　梟ふくろうは、呟くように言った。
「いいや、彼奴あいつは、もっと、恐ろしい事を計画たくらんでる奴だよ」
　ヴルドッグは、溜息を吐いて言った。
「どんな事を。……そして、彼奴あいつは、何者だ……」
「何だか、俺にも解らないんだが……」
　彼は、沈んだ重苦しい声で、言った。
「彼奴あいつは、泥棒だよ」
　顔の焼け爛れた監視者は、怯おず々おずと言った。
「ばかな。彼奴あいつが、何を盗むてんだ。第一、此所ここに盗まれる程の何かが、あるとでもいうのか」
　年とし老とった監視者は叱るように言った。
「いいや、そんなんじゃない。何か、恐ろしいものを、覘ねらってる奴よ……」
「ああ、あ……」
　誰かが溜息をした。
　然しかし、彼等は、間もなく黙り込んで、口を噤んでしまった。
　明三は、暗いセメント樽の蔭で顔を歪めて、冷笑せせらわらいした。
　幾らも経たないうちに、彼等は寝入ってしまった。
　万有すべてのものは、夜の幕とばりの下に、地に頭を垂れて、暗い眠りに沈んだ。その中を、慴おびえたような叫声をあげて、暴風は狂乱くるいまわった。

　時子は、忍び足に歩いて来て、指でセメントの樽をそっと二つ叩いた、明三は、立上って、用心深く其所そこを出た。
　女は、そっと彼の指に触った。黒い不気味な捲まき布ぬのが、顔に纏まつわりついているような、暗さであった。彼女は、歩きながら、彼の耳に口をあてて咡ささやいた。
「若もし、……若もし、見つかったら、殺されてしまうわ。二人とも……」
　明三は、惑乱した気持で彼女の手を握って何か言おうとした。
「いけない。もう些すこし……」
　彼女は、慴おびえたように遮った。そして、二人はまた、暴風あらしの暗がりを川岸の方へ歩いて行った。闇の中に慄ふるえる、白しら樺かばの木立が見えた。それが、埋立地の境になっていた。
「時さんも……、行くのかい」
　明三は、喉をしめられたような声で咡ささやいた。女は、黙っていた。そして、彼の外がい套とうを探りながら、衣嚢ポケットを探した。彼女は慄ふるえながら、彼をしっかり摑つかんだ。
　明三は、黙って女からその小さな紙包を受取った。
「じゃあ、行かないのかい……」
「私は、私は……、唯ただ一人で、この地獄へ、残るの……」
「私を、宥ゆるしてくれ」
　明三は、彼女の手を握って嗚咽すすりなきながら。言った。
「唯ただ一度、あなたの顔が、見たいけど……」
　女は、手で彼の髪から顔を探りながら言った。
「また、会うよ。私は、どこかで、きっと貴女あなたを待っている。きっと……」
「だって、今行ってしまうのに。それは、嘘よ。それは……」
　女は、地上に泣き伏した。明三は、そこへ跪ひざまずいて彼女の髪に接吻した。
「だって、まだまだ私たちは、長い間を生きてなきゃならないのに……」
　女は、急に、噦しやくり泣なきながら笑い出した。
「ハ、ハ、ハ……。そうね。皆、ばかな事だわ」
　そして、彼の唇に、ウヰスキーの壜びんをあてがった。明三は、それを呷あおった。女は、彼の肩に手をあてていたが、急に彼から瓶を引ひったくって自分で飲みはじめた。そして、炎のような熱い息吹をして、彼の肩を抱いて額に接吻した。
「さあ、私の唇に、接吻して頂ちよう戴だい。それが、私を待ってる証しるしよ。どこかで……。あの娘の側ででも……ね」
　明三は、慄ふるえながら彼女の唇に、接吻した。女は、長い間彼を抱いて、その唇を吸って離さなかった。
「ああ、いやな世の中だ。じゃあ、さよなら、さよなら……」
　女は、遂に、彼を離して立上って、飲み残した酒さか壜びんを、彼の衣嚢ポケットに入れた。そして、三歩ばかり暗がりの中を、歩き出した。
　明三は、暴風の荒すさぶ、暗い地の上に、一人で立った。黒い夜の空に、鞭を振るような悲しげな、風の声がした。
　女は、再び身を翻して走って来た。そして、暴風のように無言で彼を抱いて、慄ふるえながら泣いた。
「私を離してくれ。さよなら」
　明三は、悩み疲れたような悲しげな、声で言った。
　女は、遂に彼を離した。そして、暴風の中を狂おしげに走り去った。
　明三は、その足音が消え去るまで微動もしないで立っていたが、軈やがて俯うなだれて暗い川岸の方へ歩いて行った。