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第52節

「それでは島崎君に対して、君は何う思うね?」
 こういつも私の相手になるK君が尋ねた。
「性欲の上でかね?」
「そうさ………」
「島崎君の作は、どれを繙いて見ても、性欲の匂いが盛にしているじゃないか。現代の作家の誰よりも性欲的じゃないか。『春』を見給え。『家』を見給え。それからその短篇を見たまえ。すべて中に満たされた性欲が、はちきれるような性欲が、殻を破ってそしてでてきたような感じがするじゃないか?」
「そうかな──」
 いくらか首を傾けるようにしてK君は言った。
「そうだよ、たしかにそうだよ。一番始めの『若菜集』だってそうだ。あるいはあの詩集を出した、もっとぐっと以前から、女の肌などは知っていた人ではなかったかと思うね。それはY君からきいた話だがね、島崎君がY君の故郷の下総の布佐に行った時、つまり全集の一巻の中の『利根だより」のあの時だね。その時Y君は島崎君から、君は女を知らないんですか? とか何とか言われて、非常に困ったことがあったって言う話だったよ。それから押して、『野辺のゆきき』と『若菜集』とを比べて見ると、その違いがよくわかるような気がしたよ。そのことがあとで『春』の中に書いてあるじゃないか。」
「そうだね?」
「だから、若菜集を書いた時には、もうちゃんと異性を知っていたわけなんだね?」
「そうかな」
「だから、若菜集の中からでも、童貞でない性欲の匂いを十分に嗅ぐことができるんじゃないか。そしてその匂いであればこそ、あのように世の中を動かしたのではないか。空疎な、単純な空想詩ではなかったのではないか?」私はこう言って、『島崎君ぐらい性欲に苦しんだ作家はないと言っていいだらうね?」
「そうかな?」
「あの重々しい気分、あれが即ち性欲の重荷だよ」
「そう言っていいかな。ちと独断にすぎはしないかな?」
「それはこうは言い得るかも知れない。つまり、そういう批評をする僕がそうだから──人一倍性欲論者だから、それでそういう風に見える! そういう形にばかり見ている! そうは言えるかも知れない。人間というものは、大抵雑り合っているもんだからね。この方の心にそういうものがなければ、向うのものだって、はっきりそれと見ることはできないようなものだからね?」
「それはそうだね」
「しかし、ある作家に取っては、性欲は決して重荷にならないものだけれども………島崎君はそこに重味があると言えば言えるんだね。真面目だからね。わざとああしているのではないかと思われるくらいそれくらい真面目だからね。……だから、島崎君は何うしたってモウパツサンや西鶴という風にはなり得ないね。何方かと言えばフロオベルだらうね。ゴンクウルとも違っているね。ツルゲネフにも似ているところはあるにはあるけれども、ああした重々しい性欲はツルゲネフにはないね?」
「フロオベルには、では、そうした性欲があるかね?」
「それはあると思うね。最後の作のフバカル・エ・ヘキツュヘ(※ブヴァールとペキュシェ)などにも沢山にあると思うね。やはり、かれも半生を独身で暮したような人だからな………。ボヷリイ夫人のあの重さだって、やはり、性欲の重みと言えるからね?」
「それはそれでまアいいとして」K君は一歩を進めて、「それにしても、性欲について、島崎君は何うそれを取扱ったかということが問題になるね?」
「それはなる──」
「やはり、女を周囲に近ずける作者のひとりかね?」
「島崎君には、性欲は研究したり、玩弄したり、または解剖台に載せたりするようなものではないのだ。もっと大切なのだ。それに触れると、何うしても全身的にならずにはいられなくなるのだ。そこがモウパツサンや西鶴になれないと僕が言ったところさ。だから、かれの作からは、性欲を研究したり、玩弄したり、解剖台に載せたりしたようなものは、ついについに発見することはできないよ。『爺』という短篇があったね。あれなどはそれでもいくらかそれに近い方だけれども、とてもモウパツサンのように軽快ではないからね。だから、島崎君に取っては、性欲は単に研究材料にすることはできなかったのだよ。だから、つとめてそれに触れないようにしていたのだよ。そこにその作の持った重味があると同時に、性欲に対する理解と言ったようなものを発見することができないわけだよ」
「では緑雨の行き方などとは、丸で違った行き方だったんだね?」
「それはそうとも………。緑雨などとはぐっと違うよ。」
「『新生』については何う思うね」
 K君は急に話頭を転じた。
「何うつて?」
「あれもやはりそうかね?」
「それはそうさ………。あれなどは、ことにその性欲の重々しい匂いが嗅がれる作じゃないか。明治大正の文壇で、あれくらい性欲的な匂いのする作はないじゃないか?」
「そうかな」
「圧迫した性欲、それから起って来る匂いが鼻を衝くじゃないか。それはあの作については、いろいろな問題がある。芸術家としてのかれと人間としてのかれとの問題もあれば、『実行と芸術』に関した問題もある。いいとも言えるしわるいとも言える。あの作がその罪を償って余りあるとも言える。しかし、そういうことはここでは言わぬとして、とにかくあの作から重々しいいやな匂いの嗅がれることは事実だらう?」
「それに、いくらか気障と言ったような気もするね?」
 Kは口を挿んだ。
「気障? それは止むを得ないね。ああして真面目でいては、何うしたって、気障になって来るよ。つまり自己の位置をあまり自覚しすぎているようなところから起って来る気分だね。そういう気分は『新生』ばかりじゃない。島崎君の作には、気障とか、気取るとかいうことは、昔からあるじゃないか? 若菜集あたりにだってあるじゃないか」
「それはそうだね。その点でも島崎君のものがいやだ! つていう人はかなりあるようだね?」
「しかしキザとか気取るということでそう言って了うのは、余りに島崎君を知らない人だね? もっと大きな立派なものを島崎君は持っているよ。それは僕としては、友人としては、もっと砕けた、何でも打明けて話してくれるような、もっと親しみのある、仏教で言えば大乗的のところがでてきてくれればいいとは思わないではないけれども、島崎君に取っては、それは無理な注文(※原文ママ)だからな。あの真面目な、容易に心を開かない、あくまで忍耐的のところがその本質なんだからな。そしていつでも、何んな時でも、その心持で通して来たんだからな。何んなことに出会しても、皆な自分で独りで処分して通って来たんだからな。それは『新生』を読んだだけでもわかるじゃないか。その証拠には、友達だなどと言ったって、誰ひとりその話を話されたものはないんだからな。いや、それは昔からそうだったんだよ。誰にも言わずに、突飛なことをして友人達を驚かすのが、島崎君の習慣だったんだよ」
「そうだろうな。そういう気質なんだらうな。そうでなくっては、あの『新生』はできるわけはない」K君はこう言ったが、更に突込んで、「で、あの『新生』に書かれた思想、つまり後半部においての思想、あれについては、君は何う思うね?」
 私は言った。
「あれがつまり信ずるという境ではないか。信仰とか、宗教とか言ったような門戸に達したという形じゃないか。また島村抱月氏や、岩野泡鳴氏などの堕ちて行ったところから起き上って来たような心持ではないか。何うも僕にはそう思われるね。抱月氏などでも必然あそこに行かなければならないのではなかったか?」
「そうすると、つまり、あそこが新しい思想のどんづまりと言ってもいいわけだね?」
「そうだね? まア、そう言ってもいいわけだらうね?」
「それほどあそこが立派な境地と言うことができるかしら?」
 K君は首を傾けつつ言った。
「それは立派な境地だか何うだか、それはわからない。しかし一歩を進めていることは事実だとは思うな。あの境は存外消極的なものかも知れない。また存外芸術的でないものかも知れない。行当たった壁のようなものかも知れない。あそこに行っては、もう描いたり書いたりするというよりは、説法でもしなければ満足ができない境かも知れない。しかし、とにかく、あそこまで行ったことは面白いね。自己だけを趁(お)ってそしてあそこまで行ったことは面白いね」
「そうかな──」
「しかし、こういうことは言える。あの境に行ったのは、それはたしかに突当った形だとは言える。あれから先へは容易には行けぬ。大抵の人は、あそこまで行って、そしてまた引かえして来るのであるが、さて島崎君は何うするか。何ういう風に出て行くか。あのままあそこに踏留っているか。それとも引返すか。あの『処女地』という雑誌を出したことなどは、私はあまりいいとは思わないね………」
「そうですね。あれはちと変でしたね?」
 こうK君は言った。
 研究的ではなかったけれども、また解剖に解剖を加えたようなものではなかったけれど、しかもとにかくに、島崎君の作からはそうした性欲の重々しい臭気を嗅ぐことができた。何うかすると、読む方でも、普通の状態を通り越して、気が狂いはしないかと思われるような重苦しい感じを受けた。これに比べると、秋声氏や泡鳴氏の暗さは、全くそれと性質を異にしていた。決して藤村氏のように肉体的ではなかった。