第11節
こういう”Strum und Drang”の中に、斎藤緑雨のような人のいたことも、特記しなければならないことであった。
それは透谷などに比べて丸で正反対の方面に立っていると言ってもいいような人であった。かれは仮名垣魯文の弟子であったか何うか知らないけれども、とにかく、そうした前世紀の作者の群の中の一人で、明治十九年頃に、江東みどりの名で今日新聞という新聞にその小説を掲げていた。
しかし、そうした閲歴を持った人としては、随分才子であもあり、また辣腕家でもありして、比較的後までも文壇的声明を保持していることができた。明治二十七八年頃には、「何と言っても、緑雨は大家だよ。もう紅葉や露伴にもひけは取りはしないよ」こんな風に言われていた。
しかしかれは新しい教養の何物をも持っていなかった。外国語の知識もほとんど皆無と言って好かった。ただ、かれは文壇を遊泳することに熟していた。かれは鷗外の処へも行けば、露伴のところへも行った。紅葉のところへは、余り歓迎されなかったけれども、それでも一度や二度は行ったことがあるに相違なかった。かれと一葉とのことは、一葉の日記を見れば、はっきりとわかった。
江戸子気質の面白い人だというものもあれば、あんな道徳途説家はない、滅多なことは言われない、この方でそんな気でなしに言ったことがすぐ向うに行って何んな形になってあらわれてるか知れやしないなどというものもあった。棄誉区々で、何れが本当だかわからなかったけれども、尠くとも何方かと言えばこわもてのする方であった。正太夫(※緑雨の別名義。正直正太夫)と言えば、到るところで警戒された。ことに、硯友社方面では、かれに対して非常な悪意をすら抱いていた。「一体、たちがわるいやね! 何しろ教養が教養だからね」こんな風に紅葉なども言った。
かれは車であちこちを訪問することを日毎のようにしていた。それは一葉の日記を見てもわかるが、そういう風に人を訪問して、三時間も五時間も、場合によっては一日も車を待たせて、長く長く話し込んで行くのであった。そしてやれ紅葉が何うの、露伴が何うの、千駄木が何うの、早稲田が何うのと言っては、この方で得たところのものを向うで話し、向うで得て来たものをこの方で話すという風で、滅多に人の知らないようなことをもよく知っているばかりでなく、雑誌や新聞などの消息もよく知っていて、今度の夏は誰が『国民之友』に書くとか、あんな奴が書くなら、俺のところにも頼みに来たけれども俺は書かぬとか、やれ何うしたとか、こうしたとか、いろいろなことを言っていた。それに、よく人の文章や詩の口真似などをやって、場当りを取って、そして喜んでいた。たしか関根正直の歌に、『松原をつはらつはらに見つつ行けは松原かくれ桃の花さく』というのがあって、それが落合直文だの小中村義𧰼だのの歌と並んで新聞の歌壇に出たのを、それをぢぐって、『金つばをつばらつばらに見つつ食えば、金つばがくれあんの香ぞする』とやったりした。新体詩見本などと言って、新詩人の詩を罵倒したりした。
かれが死んでから、五六年も経った後で、私は生前かれと親しくしていたHに尋いた。
「一体、何ういうんだね? あの人は? あの人ぐらいいろいろに言われる人はないがね?」
「君も逢ったことがあるあけ?」
「あるにはある」
「何んな感じだった──?」
私はかえってHから反問された。
「さア、何んな感じって、別にわるくもなかったがね?」
「何ういう場合だったね?」
「それはね、不思議なことがあるんだよ。僕と先生と合作で、僕の書いた小説を北海道の新聞に出したことがあるんだよ」
「ふむ、それはめずらしいね? 花袋緑雨合作? それはめずらしい?」こう思いもかけないことをきいたというようにして、「向うから来たのかね?」
「逢ったのは、僕が本郷のあの一岐殿坂上の下宿に訪ねて行ったと覚えているね。佐々醒雪が中に入ってね。六十回ぐらい出たよ」
「ふむ、題は何と言ったね?」
「『朝月夜』」
「ふむ、そいつは面白い………。それで金はくれたかね?」
「くれたよ」
「ふむ──」と言ってHは考えて、「なアに、先生だって、そんなにわるい男じゃないよ」
「それはそうだと思うんだがね?」
「先生、やはり、孤独でさびしかったんだな? とにかく、書くものだって旨いし、あの当時では一流だアね。それに、世の中のことも知っている。世間にも深く浸っている。だから、紅葉や硯友社の書くものなんか甘く見えて為方がなかったんだね。紅葉が『三人妻』で芸者や妾を書くと、大に笑ったもんだアね。眉山のものだって、あんな時に小唄なんかが出るもんかって言っていたことがあったよ。そしてそれをツケツケと言うから、自然皆なから嫌われるようになったよ。それはね、ある人に言わせると、悪辣なところがあるように言うけれども、それはひどい目に逢ったからで、小説家と言われるほどの人だもの、聡明は聡明だったからね。馬鹿々々しいことを人がやっていると、ついからこう気になると見えるんだね。しかし、先生の得意の時代は、そう長くなかったね。国会新聞に入っていた時分が、あれで一番得意だったんだらうね?」
「何でも、緑雨をつれて、柳橋あたりを遊んで回った人があったんで、それで、いくらかああした社会のことも書けるようになったんだってね?」
「そうだよ。先生をとり巻きにつれて歩く金持がいたんだよ。先生、自腹で遊んだわけじゃないよ。先生の家はね、藤堂家の家来でね。本所の緑町にいたんだよ。貧乏士族で、金なんかありゃしなかったからね」
「そうかね」
「晩年は気の毒だったよ。小田原に行って、小杉天外を対手にして、自ら先生振ったのなどは、考えれば可哀想なところもあるけれども、児戱に類するよ。天外もまたわるいんだ。その時分、金があると言って、何も見せびらかすには当らないんだよ。天外を拾い上げてあれまでにしてやったのは緑雨だからね。」
「それはそうだ………『改良若殿』でも、『蝶ちゃん』でも、皆な緑雨の奨励によって書くようになったんだからな。何でも合作もあったはずだ」
「まア、しかしこういう気はするね。あの人以後にもう再びああいふ人はこの世にでてこないという気はするね」Hは深く考えるようにして、「やはり、江戸時代の生んだ最後の一人というわけかな。前川に行って、財布から一両出して、「姐さん、鰻をこれだけ焼いてくれ」と言った話は、有名な話しだが、ああいふところは、江戸子の特徴として、ちょっと面白いね。でも、晩年はもう哀れだったよ、吉原の小店にまで入って行くようになったからね………。たしかに江戸子の最後の一人だよ」
「ふむ、面白い──」
私はこう言わずにはいられなかった。
「それで、先生、自分の作で何が得意だったね?」
「『かくれんぼ』が得意だったね。それに、一番終いに書いた『門三味線』──」
「門三味線』なんか大したもんじゃないね。それにあれは未完だ………」
「あんまりこりすぎて、書けなくなっちゃったんだ。何アに、書けば書けるがね、それよりも短文でも書いている方が楽で、そしてお先さまでも喜んでその方がいいって言って下さるんだからね………なんて皮肉を言ってたことがあるよ」
「面白いな」
「とにかく、新しい芽がこれから出て行こうとしている時代に──若い才能がそれからそれへと頭を出しかけている時代に、次第にその巴渦の中に、またはきおいの中にその影が薄くなって行ったようなかれが面白かった。ドイツのハイネがパリで死んだ時のことなどがそれとなしに思い出された。
しかし、あの緑雨にしても、時代がああでなかったならば──まだ文体すら碌々きまらないような、または和洋漢の三つの文化が何方に行っていいかわからないような交錯をつづけているような混沌とした時代でなかったならば、もうすこしその持ったものを世に残して死んで行くことができたであろうと思われた。かれもやはり、透谷、二葉亭などと同じように、その持ったものを十分に発揮することができずに死んで行ったひとりであった。
それは何うしてわかるかと言うのに、晩年に『新著月刊』という雑誌の求めに応じて、恋愛ということについて話しをしている。その話がいかにも面白い。深く且つ辛竦である。かれもあそこまで行ったのかと思われるようなところがある。あれでもう少し落付けば──文壇の外に流されるなどということを気にせずに落付いて書けば、西鶴とは形がちがっても、あの塁を摩す(※ほぼ同等になる、匹敵する)ほどのものがきっとできたろうと思われる。かれに比べては、紅葉の恋愛観などは甘いものであった。成ほどあれではかれが笑ったのも理由があると思われた。
少くともかれは男女のことにかけては、よほど深く入って行っていたところがある。あれを言うには、さぞいろいろな経験をしたろうと思われるようなところがある。皮肉ではあるが、千古不易(※ずっと変わりがない)の男女の悲劇に深く入って行っている。あの頭で、何うしてあんな『かくれんぼ』や『門三味線』などを得意にしていたろうと思われた。また、『みだれ箱』にある軽口か落語のようなものを書く気になったであろうと思われた。やはり、それは時代の罪ではなかったか。ああいうものを喜ぶ時代の罪ではなかったか。否、そうした時代や社会にあまり重きを置きすぎたかれの過誤ではなかったか。