第61節
この頃の福岡日々新聞に、前田晃(※翻訳家、小説家)氏が『暁霧』という作を載せているが、まだ半分くらいしか出ていないが、この作者についても、私は一言二言言って見たいと思う。
氏が大正の文壇において、すぐれた翻訳家であることは誰も知っている。かれは難かしい、誰も容易に手をつけることを敢てしないゴンクウルの『ジエルミニイ』を訳した。モウパツサンの『ピエル・エ・ジヤン』を訳した。チエホフの『短篇集』を訳した。イタリイのアミイチイスの『心』を訳した。
『暁霧』は氏の試みに長篇の二番目の作である。まだ、半分しか出ていないから、それに対しての本当の批評は言えないけれども、四十を過ぎた主人公の複雑した見方の中に、恋と家庭と人生とをあらわしたさまは、非常に面白いと言わなければならなかった。そこには人生の半を過ぎた人達の苦みと悶えとを歴々と指さすことができた。またこのつらい人生の中に孤往独邁する人達の当然邂逅しなければならない苦痛に苦しんでいるのを指さすことができた。そこにはいろいろ問題が細かくこめられてあった。深く篭められてあった。恋の問題もあれば、妻と子との問題もあった。生活に対する苦しみもあった。それに、それをあらわすについても、回想の形を取りながら、それをお話しでなしに、シインとして、光景としてあらわそうとしてつとめているさまなどは、技巧の上から言っても面白いものと言わなければならなかった。
氏は文壇においては、何方かと言えば不遇であったけれど──時にはそうした地位に身を置くはずがないと思われるほどそれほど不遇であったけれども、しかし次第にその本質はその光を放って来た。
『暁霧』は尠くとも近頃読んでいるものの中では最も私の心を惹いているものの一つであった。