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第51節

 私は自分で翻って考えて見た。自分は曽て斎藤緑雨の恋愛観を読んで何う思ったひとりであったか。それに対してその不真面目を責めたひとりではなかったか。内心ではその理屈に点頭きながらも表面ではその言い方のひどいのに激昂したひとりではなかったか。否、そればかりではなかった、女性崇拝、恋愛崇拝にその全心を集め、恋は真面目でなければならないということを高調したひとりではなかったか。
 世間普通の人達の言うように、そういう風に女性を取扱うことを快しとしないひとりではなかったか。
 私はいろいろなことを思い出した。恋を玩弄視するものを罵ったことをも、不謹慎に女のことを話すものに唾をかけてやりたく思ったことをも、何も彼も………。そして私はそういう意味で、硯友社の人達に笑われ通しに笑われて来たことを思い起した。
「あいつは甘い少女党だ!」
 こう誰にも彼にも言われた。
 それでいながら、その自分、私は何を思っていたであろうか。芸者のことに通じていたり、狭斜(※色町、風俗街)のことを十分に書きこなしたりする人達に押されたために、そのために、そうした態度になって行ったのではなかったか。腹の中では、今に見ろ、俺だって、そういつまで馬鹿にされてはいないぞ! いつか一度はそういう題材を縦横に取扱って見る時代がやって来るぞ! こう思っていたのではなかったか。
 私ははっきりとそこに性欲を見ることができた。一から二へ、二から三へと進んで行っているその性欲のあらわれを。次第に大胆に、羞耻も何もなくなって行っている性欲のあらわれを。尊敬するとか、崇拝するとか、保護するとか、そういうことは、異性に対してあるひそかな欲望を持っているためで、それでは本当ではない、両方の間にいささかの被衣をも置かないような、そうした純粋な形で、異性同士は互いに相抱擁しなければならないというような性欲のあらわれを。「そうだね、何うしたってそうなるね。それでなければ、本当でないからね」こう私は後に言ったことを思い起した。
 およそ作品に対して、この性欲ほど大切なものはなかった。その作品にあらわれた性欲の形のいかによって、その作家の心の何ういう位置にいるか? 低級であるか? 高級であるか? 幼稚であるか? それとも深酷であるか? 無邪気であるか? 卑怯であるか? 何ういう情義を持しているか? 何ういう献身的犠牲の精神を持っているか? その献身的犠牲は女性の心を得んがための方便であるか否か? それともまた大勢の女を相手にして、場合に由ったらひとりずつそれを自分の自由にしようとしている質か? それともまたひとりに深くはまり込んで、容易にそこから出て来られない質か? その人の女性観はデイシプリン(※規律、訓練)されてあるか何うか? まだいろいろな世間欲に捉われていはしないか何うか? 恋愛というものは根本的で、それは耻ずべきものでも隠すべきものでもないという心の境地に達しているか何うか? そういうことがすべてはっきりとその作品によって押し料ることができるのであった。そして、それによってその作家の大きいか、小さいか、豪(えら)いか、豪くないか、深いか、深くないかを知ることができるのであった。
 また更に一歩を進めて、この作者は何の点まで女を知っているか? 女を知っている程度はお話程度か、それとも本当か? いい加減なところで低徊してはいはしないか? 女の美にあくがれて本当のところまで入って行くことができずにいはしないか。女にだまされていはしないか? 女を買被りすぎていはしないか? 女をいい加減のところに置いて考えていはしないか? そういうことが、ひとり手にその作品の上にあらわれて来るのを拒むことはできないのであった。
 そういう点では、近松は如何? 西鶴は如何? モウパツサンは如何? アナトオル・フランスはは如何? 紅葉はは如何? 柳浪は如何? 二葉亭は如何? ハウプトマンは如何? ダヌンチオは如何? 漱石は如何? 泡鳴は如何? 藤村は如何? そういう風にも一々点検して見て来ることができるのであった。
 ロシアのツルゲネフ──あの人は別の意味においては、すぐれたところがないではなかったけれども、性欲の方面では、そう大して深いものを持っているとは言えなかった。フランスのアルフォンス・ドオデエ、あれもやはりそうであった。細君に押えられてその家庭に落付いていたようなかれには、深く男女の微妙な心持を描くことはできなかった。そうかと言って、作者は何んなことでもしなければ駄目だというのでもなかったけれども、尠くとも男女の深い心理に入って行くことだけは必要であった。
 そしてこの性欲問題は、世間が何う変ろうと、思潮が何う変化して行こうと、また年月がいかに経とうと、決して変らないものであった。私達は『古事記』の中にも、『万葉集』の中にも、ホウマアの中にも、マアロウの中にも、すべてはっきりそれを見出すことができた。また、それを今のプロレタリアの中にも、ブルジヨワの中にもそれをあてはめることができた。「そうだね。それだけは違わんね? 何処まで行っても、一夫一妻の理と、2と3との悲劇とは同じようにつづいて行っているんだらうね? どんなに両性問題が発達したところで、それがなくなろうとは思えないからね?」こんなことを私達は言った。
「つまり、明治大正の文壇だってそうだよ。抱月氏のやったことにも、それがあるし、泡鳴、藤村、すべてそうだからね。そう言えば僕だってそうだよ。白鳥のようにああいう風に生活しているということの上にも、その性欲の形はちゃんとあらわれているじゃないか。秋声君にだって、あらわれているじゃないか。そしてそういう風に皆なが違っているということも面白いじゃないか!」
 現代の作家の作品中に、何ういう風にその性欲が、その両性観があらわれているかということを考えて見ることも面白い興味あることではなかったか。私の考えでは、紅葉のはそう大して深味を持っているとは思われなかった。『多情多恨』のあの待合の描写などでも、ちょっと行って写生して来たくらいの精細さしか持っていないし、『三人妻』の三人の女の書きわけ方にも、話で聞いた、または才でごまかしたぐらいの程度しか書けてなかった。その点に行っては、あるいは柳浪の『今戸心中』や『浅瀬の波』などの方がもっと先まで深く行っているかも知れなかった。緑雨は前にも言ったように、心持だけはかなりに深いところまで行っていたけれども、その書いたものには、とても西鶴あたりに及ぶほどのものはなかった。露伴にも、鷗外にもそういう方面は余り深く開拓したとは思えなかった。藻社の連中では、何と言っても風葉が一番そうした問題に触れたと言うことが言われ得るだろう。鏡花は狭斜に通じているけれども、直写することの嫌いなかれの作品には、本当の「あらわれ」を何処にも容易に発見することができなかった。
 独歩の中には、暗い性欲──それだけが暗いというような性欲を私は見出すことができた。『悪魔』『正直者』などといふ作がそれである。それに、女のことについても、かれはかなりに深く知っていた。例のお信さんばかりではなく、いろいろな女を透してそれを知っていたらしかった。『女難』『節操』という作などがあった。
 白鳥氏は女をよく知っていると言われている。また女をよく書くと言われている。泡鳴もその一人である。時にはかれは自分ひとりが女の本当のことを書いたと言うように自惚れていたことなどもある。秋声もまたその一人である。狭斜──ことに廓の描写は手に入ったものだと言われている。
 その後にも、そういう人達が多くでてきた。谷崎潤一郎氏のものにも、かなりに深いものがあるのを私は見たことがあった。床の中での2と3の悲劇を書いたのを見たことがあった。里見氏のものにも、そうしたすぐれたものが多かった。最近の『直輔の夢』などは、たしかに男女の心の中に深く入って行ったものでなければ書くことのできないものだという事ができた。
 これに引きかえて、有島武郎氏の『ある女(※原文ママ)』や『石にひしがれた雑草』などにはそう大してすぐれたものを見出すことができなかった。女に対する創造がすべて見え透いているような気がした。概して、女性に偏った作者は、女性に評判のいい作者は、女性をその周囲にあつめているような作者は、実際的には性欲を痛切に感じているには相違なかったけれども、それを描き出すという上においては、十分にその眼を開くことができないような形がひとり手に出て来るのではないかと思われた。女に好かれた近松と女に嫌われた西鶴との区別がそれでもわかった。