血の呻き 下篇(5)
四三
次の日の午後、明三が扉口へ出て行くと、白痴の茂が蹙面をしてそこらをうろついていた。彼は、明三を見ると慴えたように、走り出そうとした。
「おい。茂……」
彼は、呼びかけられると、黙って彼の前へやって来て、俯れた。
「あの医者が、金をくれるってたから、俺は、お前を呼びに来たんだ……」
彼は、一つ頭を下げて、また顰面をした。
「ふうむ。然うか。じゃあ、俺も金をやるよ」
「何をするんだ」
「何も、しなくっても、いい」
「いらない」
暫く考えてから、茂は言った。
「ふうむ。何故……」
「悪いんだ。それは。あの山口の大将が、言ったんだ。何か、仕事をしないのに貰っちゃいけないって。だから、誰か呼出して来るとか。手紙を頼むとか。でなきゃ、何か盗んでくるとか。……」
「然うかい。お前は、何所へ行くんだ。今」
「俺は、人を探してるんだ」
「誰を」
「誰でもいい。あの医者が、死にかかってるから」
「医師が。それは、どこだ」
「あのほら、Y町の防火壁の下だ」
「俺が行く」
「お前が。そうか……。おかしいなあ……行くのかい」
明三は、走り出した。
茂は、彼の背後から、ついて走りながら、また独言のように言った。
「お前、何故あの人の所へ、行くんだ。あの人はほら、あれじゃねえか……」
「どうして、そんな所にいるんだ」
「知らねえ。あの石の壁へ頭を打つけたんだ」
「頭を」
「うむ。あの人は、あの壁の下へ這い込んで、めそめそ泣いていて、急に頭を打つけたんだ」
「何時」
「先刻だ。きっと頭が壊れてしまったのかも、知れねえぜ」
「生きてるか」
「生きてる。壁に額をあてて唸ってるんだ」
二人は、その防火壁の蔭の暗がりへは入って行った。老医師は、血塗れな頭を防火壁の下の地面にあてて、泣いていた。
明三は、そっと歩み寄って彼の頭に触ってみた。その軀はひどく鞭打って酷使われた馬車馬かなぞのように、ぶるぶると慄えていた。明三は、その頭を抱き上げた。老医師は、顔をあげて彼を見た。その顔は、見る見る醜く顰んで、癲癇の発作でも起きたようにわなわなと慄える手をさし延べて彼を押退けた。
そして、急に叫声をあげてその傷ついた頭を引ずるようにしてそこを潜りぬけると、狂犬のようにどこかの小路に走り去った。
明三も続いて道路まで走り出たが、もうそこの土の上から姿は消えてしまっていた。
「へえ。あんなに生きてたんだな……」
少年は、独言のように呟いた。
「あの人を、見ていてくれ。ほら、金……」
明三は、彼の掌の上へ二個の銀貨をのせた。
「何故だ」
然し、明三は何も答えないで、さっさと宿の方へ歩き出した。少年は、茫然彼を見ていたが、笛のような声をあげて、老医師の走り去った後を、走って行った。