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第8節

 しかし、何が恐ろしいと言って、時ほど恐ろしいものはなかった。私はことにそれを痛感した。社会はまだ出て来ることができた。世間はまだ離れて来ることはできた。しかし時は? 時は?
 私は私の姿をそこここに見た。草鞋を穿いて、着茣蓙を着て、さびしく並木松の中を歩いている私を見た。山の中の一つ屋で、家も倒れるばかりの地震に逢って、慌てて飛び出して来た自分を見た。また都会のあわただしい空気の中に、将来の成功を夢みつつ、小さな机を暗い窓の下に据えている私を見た。(何でもいい、何んでもいい、私は私のするだけのことをする。小詩人であろうが、無名作家であろうが、何でも構わない。自分は自分だけの天分を完うすれば好い)こう言って机に嚙りついている自分を見た。そうかと思うと、始めて紅葉を訪ねて、いろいろ話をきかせて貰って喜んで帰って来ている自分を見た。
「そうだね、何と言ったって、しまいには言文一致だね。外国の作品のようになるにきまっているね」
 こうかれは言って、傍に置いてある一冊の本を私に見せた。「これはね、アメリカの友達が送ってくれたんだがね? 面白いもんだよ。今、フランスで有名な作家だよ」
 忘れもしない、それはゾラの『アベ、ムウレの罪』(※ムウレ神父の罪)であった。
 かれは続けた。
「ちょっと読んで見たがね。面白いね。非常に細緻なレアリスチツクなもんだ。そうだね──たとえて見れば」こう言って、そこにあった扇を取って、少し開けて見せて、「こうした襞、細かい襞の濃淡を一つ一つ書いて見せたようなものだね………。何とも言われないね。とてもこの方では真似できないね」
 私はそれ以前に、ゾラの『コンケスト、デュ、プラツサン』(※プラツサンの征服)を読んでいたので、それほど驚きもしなかったけれども、それでもこうしてかれが新しい外国の本に親しんでいることを面白いと思った。私はその時分は英文学に一層多く親んでいて、ヂツケンス(※ディケンズ?)やサツカレイのものなどに読み耽っていた。私は『ヴアニチイ・フエア』(※虚栄の市。サッカレイ著)の女主人公の話などをした。やや下ってウイルキイ・コリンスのものなども読んでいた。
 それは忘れもしない、明治二十四年の五月の二十四日であった。晴れた日で、新緑が美しく、その二階の欄干からは、富士の姿が手に取るように見えた。その二階は六畳と八畳の二間で、本だの、籐椅子だの、座蒲団だのが混雑と置かれてあった。その時、走りのそら豆の茹でたのを御馳走になったのを覚えている。そして玄関には泉鏡花氏がいたことを覚えている。
 それに、居間には、若い美しい細君がいた。それもはっきりと覚えている。
 しかし当時の大家であった紅葉山人に取っては、私などはほとんど眼中に置かれていなかったに相違ないのであった。その後、私はよく玄関払を食った。
 私はその時分から、そろそろ英文学に離れて、大陸文学の方へと来るようになっていた。よく日本橋や神田の古本屋の店の前に立って、外国人でなければ新帰朝者の売払ったらしい古本を捜した。私の書物に対する考えはまた一変した。漢文、漢詩を売払った金で買った国文物を今度は外国の小説に代えた。私は段々丸善の二階へ行くようになった。そうした私の心持の中にも、絶えず時代が推し移りつつあるのがわかった。
 時勢の潮流は迅かった。いつの間にかいろいろなものが流れて行った。山田美妙などという人と共に、その提唱した英文学や言文一致も流れて行った。それに、政治、軍事などの上でも次第にドイツ派の感化が多く目に立つようになって行った。そしてその間に日清戦争が起った。今までその門戸をのみ経て入って来たイギリス風の感化は、そのため、いくらか傍らに寄せられたようになりつつあった。鷗外氏のドイツ文学の提唱も、それにつれて、次第に根強く当時の文学青年の頭に入って行った。
「やはり、鷗外だね。鷗外はえらいね。しかし、書くという方から言えば──小説を書くという上から言えば、あの文章ではいかんね? それはあの文章は旨いさ。漢文学者をも点頭かせることができる。それでいて、今の若い文学青年をも服させることのできる外国の新しいトオンを持っている。えらいものさ──しかし、君、小説を書くにはあれでは駄目だよ。とてもああいふペダンチツクな文章が長持ちするわけはないよ………」こうある時、私の知っている、文壇のことにもよく通じている、後には鷗外氏を正面に回して盛に論陣を張ったことなどのあるT君が言った。
「じゃ、誰だね?」
 私は尋いて見た。
「さア誰かね?」こう言ってT君はあたりを見回すようにして、「ちょっと見当がつかんね。僕の考では、いずれその中、文体が一致すると思うが──いつまでも、こんな、今のような混乱した形ではいないとは思うが、それが何ういう風にまた誰のもとに一致されるか、それはちょっと見当がつかんね……? しかし面白い問題には問題だ………」
「紅葉は何うだね?」
「さ、あれも賢いからな。そういうところには常に目をつけている。『紫』を見たまえ。『冷熱』を見たまえ。ただの鼠じゃないよ。しかし、彼奴は惜しいことには、才が邪魔をしている。それに、薄っぺらだ。面白半分だ………。あれがいけない?」
「じゃ、誰だね? もっと若い人達かね? それとも露伴一葉あたりかね?」
「あんな古い文体が何うなるものかね。露伴も賢いから、いつかはあれをかい捨てて了うだろうがね………。一葉はあれだけだよ。とても延びないよ」
「そうだな。あの文体が将来勝を占めやうとは思へんな?」
 こう私も言わずにはいられなかった。
「そうだらう? 君だって、そう思うだらう?」T君は考深く、「長谷川があれで、もう少し何うかするといいんだらうけれど………」
「うむ、そうだ。二葉亭がいる!」
 私も膝を拍った。
「彼奴なら、何うにでも出て行かれるんだけれども………。文体でも、思想でも、学問でも何でも新しいんだからね。ヘツケル、ダアウインあたりまで深く入って読んで行っているんだからね………。そう言えば、この間逢ったら、ロシアの新しい運動をしてたよ。先生はあれで中々大きいところに目をつけているんだから。文学などといふ小さな区域の中にじっとしていられない男なんだからな。いつでも日露の東方同盟ということについて立派な画策をしているんだからな………。だから、文学の方にもっとでてきたまへってしきりに勧めて見るけれども、何うも駄目だよ。あれが惜しいね………」
「本当だね」
「この間も、そう言っていたつけ………。トルストイの懐疑はやはり自分の懐疑だなんて。小説なんて、一体書くべきものじゃない。有益どころか、かえって社会に毒を流すよなんて言っていたよ。芸術家って、そんなにえらいものかね! なんて言っているんだからね。だから困って了うよ」
「本当だね」
「それに、絶えず実人生に対して煩悶しているからね。他の人達のように戱談半分ではないからな。真剣だからな。それから比べると、硯友社の人達の芸術に対する態度なんかも楽なもんさ──」
「本当だね。ああいう人が本気になってやってくれるといいんだがね?」
 私は本郷にあったそのT君の下宿を夜遅く暇を告げてお茶の水の方へとでてきたことを思い起した。何うして二葉亭なんかが本当になってくれないんだらう? ああいふ作家が出てこそ明治の文壇は革新されるであろうのに………。駄しゃれと軽口と不真面目とから救われるであろうに………。しかし、そういう風に正面にでてこないという心持、芸術をすら疑うという心持、もっと真面目に人間のしなければならないものが沢山にあるという心持、日本は今はそれどころではない、まごまごすれば、亡国の憂目を見なければならないというような心持、そういう心持もはっきり理解ができるような気がした。二葉亭の心の煩悶が自分達の考えているよりも、もっともっと深いところに行っていることを繰返さずにはいられなかった。私はお茶の水は、そこはやっと三菱で開き始めたばかりで、まだその半はさびしい原になっていた。私は、深い考えに満たされてそこを歩いて行った。
 実行と芸術──それは新興文学において、最も深い、最も真面目な、最も考慮を要する題目であったが、現に今でもそれがいろいろな人の口に上っているが、それが、その真面目な題目が、二葉亭あたりからその最初の芽を出したことを考えると、不思議な気がせずにはいられなかった。二葉亭は作物としてはそう大したものを出しているとは言えなかった。『浮雲』にしてもロシア文学の模倣と言ったような欠点があるし、『その面影』だって、『平凡』だって、かれの力を、心を、心血を十分にそそぎ得たものとは言うことはできなかった。その多い翻訳だって、今日から見れば、明治大正の文学の踏台として役立った以上に大したものとは言えなかった。しかし実行と芸術というような真面目な問題を日本の文学に提供したという形は、後に継いで起った人達に取って忘るることのできないものであった。尠くとも当時の文学青年は、かれあたりから真面目な人生と芸術との交錯した心持を鼓吹された。
 否、そればかりではなかった、かれのインド洋上の死は、そうしたかれの思想の裏書をした。十九世紀から二十世紀の初期にわたった懐疑思想の純然とした犠牲となってあらわれた。明治のルウジン(※ルージン。同名のツルゲーネフ作品の登場人物。無用者。役立たず)と言うこともできれば、日本のバザロフ(※ツルゲーネフ『父と子』の登場人物。無神論者のニヒリスト)ということもできた。