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第1章 浅草 朝から夜中まで(8)

楽屋地獄 三時──四時

 体を海老のようにして、階段をおち込んで行く、音羽座の楽屋。
 ここではみんな蟹になる。立ちふるまいは横でするのだ。狭いという語では語り得ない。六畳ほどの、これが大部屋。ここに二十人ほど居る。大きな図体で、寝転んで居る支那曲芸の李金来。誰か知らぬ、女がだらしなく寝そべって、講談の雑誌を読んでいる。壁の裾をめぐっている、棚。それが化粧台の長屋だ。折畳み式の鏡、白粉の刷毛、小さな箱、包み、──壁間にブラ下る、三味線。よごれた浴衣、衣裳。渦まいている、熱気である。
 隣りが、風呂場。
 その次が、レビューの踊り子たちの、とば口の二畳ほどが時子の部屋。弟子が、衣裳の縫いつけをやっている。その奥に四畳半位の室がある。その中に踊り子がいっぱい詰まっている。
 若いのだ。ピチピチと、はね上がり、もみ合っている。裸、裸、足、足。
 少女万歳が、舞台で、小唄をうたっている。浅草行進曲、祇園小唄、ここは舞台の真下なのだ。
「まるでタイムがとれてないわね、だからピアノを弾かれるのをこわがるのよ。」
 時子は「先生」ですから、先生らしいことをいうのである。
「だが、三味線はうまいですね、あの子。」
 向こうの室の、壁にひッついて、踊り子の背中が弁当を食べている。白いおむすび三箇、おかずは何だか見えない。
 踊り子、八九人、先生が出て行く、この次がレビューなのだ。
 狭い、熱い、着付けの時の外、こんな地獄に居る者はない。
 大部屋の写生、二人抜け出て、風呂場に入って、聞こえよがしの会話。
「こんなひどい楽屋をわざわざ写生しなくたってよさそうなものだ。」
「もっといいとこへ行って書いてくれればいいに。」
「まったく大勢だからなア、何が何やら分らなくなる。ゴッタゴッタだ。一人くらいキチンとしたって、ハタがみんなゴタゴタだから、どうせ駄目なんだ。」

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「だから誰も綺麗にする者がなくなってしまう。」
 大変に言い訳している。
「ハヤシさん、面会だよ。」
 階段から逆さの首が呼んでいる。
「お湯に入ってるよ。」
 大部屋から誰か返事をする。階段のズボン。鞄を抱えた小男。風呂場の前で待つ。
「山本君か。今すぐ出るよ。」
「いや、ゆっくり入って下さい。」
 やがて裸の若い男が、出て来る。
「や、今日は。こないだの話、これなんですよ。」
 小男が鞄から、安全剃刀を出す。
「刃をつけて二十五銭です。よく切れます。」
「誰かに聞いてやろう。」
 大部屋に入る。舞台はダンスだろう。ドタン、ドタン。頭を蹴られているようだ。バラバラ。塵が降りそそぐ。
「私は剃刀が幾つもあるんで。」
「じゃア、李さん、一つ買っておくれ。」
 李さんは剃刀を受取って、しばらくひねくり廻していたが、
「安全剃刀は使えない。」
 と戻す。ハヤシは裸のまま、上に出て行ったが、
「オーイ、一つ売れたぞ。」
 と声をほうり込む。つくねんとしていた小男、喜色を浮かべて、慌てて、階段につかえながら、あがって行った。
 ド、ド、ド、ド、ド。レビュー団が潮のごとく、桃色の体臭を発散させて、帰って来た。
「あんなハゲちゃん、いやだわよ。」
「ねぇ、ひどいわねぇ、あんなの。」
「だってお金があるよ、向こうでは、元ちゃんでも、美いちゃんでも、どッちでもいいッて、馬鹿に御執心だよ。」

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「先生」があとから、大きな声で、しゃべりながら踊り子たちを追い込んで来るのだ。
「だって先生、あんなハゲちゃん、ねえー。」
 元ちゃんは美いちゃんに同意を求める。
「ほんとうよ、ひどいわ。」
「元ちゃんの好きなのは、お金があって、若い、いい男で、それでなんでもわがままもさせてくれるッて、いうのなんだね、虫がいいよ。」
「先生」は言い放つと、鏡に向って、舌を出して見ながら、パッと、衣裳を投げ出して、素ッ裸。ここは熱帯地。
「だツて……先生。」
 あとは室の中で、キヤッ、キヤッ、キヤッ。
「ごめん下さい。」
 幕の外に佇む男。弟子が幕をもちあげて、
「どなた。ああ、呉服屋さん。」
「へぇ。」
「あ、どうも御苦労さん。どれです。」
「へぇ。」
 呉服屋は、浴衣地を並べる。狭いから並べられない。重ねる。「愛の曲線」「夏の訪れ」「恋の小波」といった類の浴衣地である。大きなガラである。
「その柄はなんだい、ははア、愛の逆流ッていうんだろう。」
 作、振付、監督をする田中喜一(義一にあらず)スマートな、舞台の紳士である。
「いえ、これは「悩ましき夕」でございます。」
「なお、わるい。」
 先生はその中から「愛の曲線」を選び出す。
「これ、どうでしょう。」
 監督さんに相談である。
「さう、それがいい、晩に家から来るのに、その上から羽織でも引ツかければ、なかなか、いいです。」
 大きな柄だ。わが木村時子が着るというのである。
「娘にでも着せたい柄ね。」
 間違いなく自分で着るのである。
「今日、お金持って来てないわ。明日でどう。」
「ええ、結構でございます。」
 室の中から、浴衣にそそぐ眼、眼、眼。三円六十銭の浴衣なんて、とんでもない話です。

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 今度は階上へ登る。階段の脇で、ハヤシがまだやっている。
「剃刀、どうだね。友だちが今宣伝中なんだ。二十五銭だ、買ってくれない。」
「君の話だから、まア義理で一つ買おう。」
「売れたぞ、おい」
 小男は後に立っている。云われなくたって見ていて分かる。うれしいのだ。下げる頭だ。
 畳をタテに四枚並べたような、ところ。突き当たりに太鼓があって、その後が電気室。
 ここは、梅吉はじめ、豊子、菊乃、貞奴、駒奴、一二三、等の幹部連の部屋だ。梅吉、菊乃、豊子が、白粉を塗っている。裸、みんな背中にお灸のあとがいっぱいある。何故あるか知らない。菊乃の乳は垂れている。豊子は、小さいが、あまりふくよかではない。──と思った瞬間、みんな、着物をはおってしまった。スケツチブツクが開いたからだ。
 誰も、素敵な衣裳を着ている。衣裳は自前だそうだ。ここは窓が一つある。富士館の裏手へ向いてだ。だから、地下の室よりは、幾分ましだ。だがそれにしても狭い、暑い。だから舞台の責任のない時間は、外へ出歩いている。出歩くところのないものは、楽屋口に出てぼんやりしている。或いはふざけているのである。
 豊子の着付。篭目の黒地と青地の交錯。涼しく腰が透けている。
「皆さん、ごめんなさい」
「アラ、帰るの。李さん。」
 奇術曲芸の李有来。明日からの出し物が変わるので、彼は居なくなるのだ。楽屋裏なれば別れは淋しい。
「また遊びに来なさいね。」
「ありがとう。」
 階段を下りて行く頭。豊子の舞台が、太鼓の脇からナナメに見られる。舞台は彼女を美しくする。客席の野次が彼女をくすぐる。菊乃と梅吉のところへ一人、女があがって来る。
「✕✕さん、どうしてや。」
「づつなしだとえ。」
 づつなし──体が悪いという意味だという。頭が痛くても頭痛なしとはこれいかに。──いやまったくこの楽屋に一時間もいたらば頭痛がして来ること請け合いである。

底本

浅草底流記 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916565/23
コマ番号 23~28