血の呻き　上篇（8）

　　　　　　　　　八

　白痴の茂が、路傍に蹲しやがんでいた。それは、荒れはてた二階建の空屋の前で、彼は通りの方に背を向けて地面に坐って何か呟いていた。
　明めい三ぞうは、そっと足音を忍ばせて、彼の背後に忍び寄った。そこの、板片の上に、彼は草色の硝子ガラスの破片や、古びたリボンの布き片れ、サイダーの栓くちなぞを並べて、それに何か話しかけてでもいるように、独言を言っていた。
　明三は、そっと、その肩に触った。彼は、怖おびえたように振向いて明三の顔を見ると、急に哀しげに俯うつむいてしまった。
「何を、してるんだ。こんなに早く………」
「昨夜は、此所ここで寝たんだ。今、所もち有ものを調べてる所なんだ」
　彼は、沈んだ声で、顔をあげないで言った。明三は、ポケットを探って、二枚の白銅を彼の掌にのせた。
「いらない」
　茂は、渋面しぶっつらをして、それを押戻した。
「何故なぜ……」
「…………」
「勲章を買わないのか」
「いいや。何もいらないんだ」
「どうして」
「俺は、此奴こいつを皆、丑公（※うしこう？ 誰？）にくれてやるんだ」
　茂は、自分の財産を指して言った。
「お前は、どうしたんだ。茂……」
　白痴の少年は、物も言わないでいて、だんだん俯うつむき込んで、果ては、しくしくと泣きはじめた。
「どうしたんだ」
　明三は、怯おず々おずと彼の上にかがまり込んで訊きいた。
「お前めえは……あれを、あれを……したじゃねえか……監獄で……」
「何を……」
　明三は、彼の肩に手をかけた。
　然しかし少年は、何も言わないで彼の手を振払って地面に打うつ伏ぶして、声をあげて泣きはじめた。明三は、何か言おうとしたが、下唇が、わなないて、黙り込んでしまった。彼は、少年の側に打うつ伏ぶして、きれぎれに嗚咽むせっていたが、終しまいには、声をあげて、泣き出した。
「宥ゆるしてくれ。俺を宥ゆるしてくれ」
　茂は、顔をあげて、彼を見た。そして、歪んだ笑を泛うかべた。
「お前は泣いてるのかい。何故なぜだい……」
　然しかし、明三は、顔も挙げないで泣いていた。茂は、自分の所有もちものをすっかり懐へ容れてしまってから長い間彼の前に立っていた。
「ハ、ハ、ハ、……お前は、白痴ばかだい」
　少年は、急に発ほっ作さ的てきに跳ね上って笑い出した。そして、彼を残して行ってしまった。
　明三は、何時いつまでも頭をあげなかった。そのうちに、港へ稼ぎに行く二人連れの男が、通りかかった。彼等は、立止ってこの妙な男を見ていたが何か、ひそひそ咡ささやきながら、通ってしまった。
　暫しばらくして頭をあげた時、明三は涙に汚れた顔をしていたが、泣いてはいなかった。彼は、疑わしげに四し辺へんをみまわしてから、冷たい薄笑いをして、埃を払った。
　そして、ぺっと地面に唾を吐いて歩き出した。
　彼は、幾度も立止って、そこらを見まわした。そして、何かを嘲るように、独言ひとりごちながら、気味悪い薄笑をした。
　彼は、そこからまだ三十歩も歩かないうちに、きく子に出会った。
　彼女は、彼の手を摑つかんで、叱るように言った。
「あら、兄さんはまあ……。どこを彷徨ほっつきあるいていたの」
「きくちゃんかい。どこへ行くの……」
　彼は、沈んだ声で聞いた。
「兄さんを、探しに来たの」
「迷まい子ごになったかと思って……？」
「まあ……」
「ふん、事実迷まい子ごなんだ」
　彼は、自分を嘲るように笑った。
「それ所どころじゃあないわ……。姉さんは、また気き狂ちがいのように黙り込んで、泣いてるのよ」
「そう」
　明三は、憂うれわしげに彼女の後について歩き出した。
　彼は、室へやの前で立止った。事実そこでは、啜り泣きらしい声が聞えた。彼が、は入いって行ったのを見ると、雪子は顔を反けてしまった。
　医師は、非常な困惑に歪んだ顔をして、彼を見た。明三は、寂しい笑を泛うかべて、彼女の枕頭へ坐った。
「頭が、痛むの……？」
「ええ」
　彼女は、夜具に顔を埋めたまま軀からだを慄ふるわした。彼も、そのまま黙り込んでしまった。彼女は、手をついて起き上るようにした。
「起きるの。雪さん」
　彼は、娘の肩を抱えた。然しかし、彼女はまた頽くずおれて、彼の膝に顔をあてて、忍び音に欷歔すすりなきしだした。
　彼女は、そして長い間咽むせび泣いていたが、遂に母の懐で泣き疲れた嬰児のように彼の膝に抱かれて、眠ってしまった。
　医師は、咳をしながら、じっと彼女の顔を見まもっていたが、そっと明三に話しかけた。
「昨夜は、まるで夜通し泣いてたんですよ」
「何故なぜです」
「貴方あなたでなきゃ、解りません」
　医師は苦しげに咳入りながら、出て行った。
「どこへ行くの、お父さん」
　然しかし、老人は何も答えなかった。少女は、傷いた々いたしい顔をして、父の後からついて行った。
　明三は、哀訴するような眼で、彼を見送った。然しかし、彼の頭はもう酔の為に、痺れてしまっていた。
　彼は、呆然眼を空間に睜みひらいていたが、頽くずおれるようにそこに俯うつぶして、眠ってしまった。
　明三が短い眠から眼をさました時、雪子は、恐ろしい青ざめた顔をして、彼を見つめていた。
　彼は、蒲団に顔をつけたまま、微笑して言った。
「何を見てるの、そんなに」
　彼女は、寂しい微笑をしたが、その眼を彼の顔から離さなかった。
　きく子は、口の中で何かの唄をうたいながら、細い指で明三の頭かみ髪のけを解ほぐしては、撫なでていた。老医師は、少年のように、手に持っていた黄色い花を挘むしっては彼の顔の所に、撤いていた。そして、ふっと明三と顔を見合して微笑した。老医師は、間もなく鞄をさげて、出かけて行った。明三も、彼と一いっしょに、そこを出た。
「何方どちらへ」
「今日は、一つ時計屋の看板をしあげなくては……」
　そして彼等は別れた。