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第6節

 尠くともその頃には、文章ということが一番重きを置かれた。「あいつはまだ文章が拙いな! 駄目だな」とか、「もう少し何うかなりそうなもんだ。丸で句読さえ本当に打てないじゃないか」とか、そういう言葉は到るところできかれた。一人前の作家になるということは、何うやら彼うやら人に認められるだけに文章が書けるということであった。それと言うのも、文体がまたそれとはっきりきまっていないからであった。
 私の記憶しているだけでも、随分いろいろな文体があった。まず第一に雅俗折衷、それは近松、西鶴あたりから換骨脱胎(※原文ママ)して来たようなもので、その中にも篁村派、露伴派、紅葉派という別があった。これに対して、漢文崩しの文章が、もはやその時分には大分その勢力を失いかけて来てはいたけれども、それでもまだかなりに書かれていた。森田思軒などがその牛耳を執っていた。そしてその一方に、言文一致が、もう少し伸びなければならないのに、いつまでもぐずぐずと同じレベルに留まっているという風で書かれてあった。私の考えでは、和文が急に流行し出したために、そのために、山田氏や長谷川氏の創めた言文一致が、その出るところにも出られずに、長い間押しつけられていたような形勢になったとも思うが、何うか。しかし、誰でも少しわかったものは、将来はその言文一致に一致されて了わなければならないものであることを──尠くとも小説だけでもそうならなければならないものであることを暗々裡に気付いていないものはないのであった。前には紅葉が『二人女房』にそれを試み、後には鷗外がその翻訳の二つ三つにそれを試みたのも、そうした気運の潜んでいたことをはっきりと裏書きするようなものであった。
 紅葉は中でもことにそれについていろいろに考えて見たらしかった。「言文一致もいいけれども、どうも物足らんね? 丸で言おうとする調子がでてこないからな。馬鹿に軽いからな」こんなことを言ったこともあれば、『ひとつ今度は地の文だけでやって見ようと思うんだ……。会話は何うしたって真に迫らなければならない約束があるんだからね」などと言ったこともあった。『紫』『冷熱』などという作には、その苦心した形が歴々と指すことができた。
 私などでも、固い文章を沢山に書いた。漢文崩しなども書いた。近松西鶴張も書いた。地の文を文章にし会話だけをそのままにしたようなものだって五つや六つ書いたことがある。それにしても何と言う混乱した文体だったらう? それが明治三十七八年の言文一致までになるのには、いろいろな犠牲も払わなければ、いろいろな人知れない踏台になったものもあったのであった。決してすらすらと楽にそこに行ったのではなかった。
 露伴──あの最後まで雅俗折衷体を書いていた露伴すら、『天うつ浪』に行って、何うしても言文一致を書かなければならなくなったのなども、暗々裏(※表記揺れ)に時勢が推移して行ったのを語るものでなくて何であらう?
 そう言えば、この頃『一葉全集』が縮冊になった。私はそれをもう一度読んで見た。かの女などは、近松、西鶴、それからずっとつづいた雅俗折衷体の最後のものであるような感じがした。あそこでああした文章を書くものは絶えた。そう思うと、一葉女史その人が、はっきりあの時代の──明治二七八頃の女を代表しているような気がした。『たけくらべ』『行く雲』『濁江』などを『めざまし草』の大家の連中の中で、露伴が一番多く推称(※原文ママ)したのも成ほどと点頭かれた。ことに、あの日記を和文で書いているのなども、十分にその人の教養の何物であるかを示すに足りると私は思う。