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第59節

 この他、今日まで来る間に、いろいろな傾向も起れば、いろいろな作家も出て、すった揉んだが随分盛んであったように私には見えた。波は立っては消え、消えてはまた立った。
 潤一郎、星湖、小劒諸氏以後にも随分いろいろな文壇的颷風(へきふう)が捲き起された。それはたとえて見れば、鼎の沸き返ったような形であった。てんでに、自己の存在のために必死になって鎬を削った。自分の安息所を得るまでは、決して争ったり戦ったりすることをやめなかった。
 そして私達時代にもそうであったように、絶えず外国の思潮をその背景に持ちつつ進んでいるのであった。それは今日では、もはや以前のように、それほど多く外国の思潮とかけ離れていないので、あの時分のように大騒ぎすることはないであろうけれども、それでも外国の傾向が絶えずこの方の文壇にも響いて来た。
 ヨオロツパの大戦の後の影響がいっとなしにこの方に響いて来て、人間の心と心とが互いに影響し合う傾向だの、プロレタリアとブルジヨアの争闘意識が次第に色濃くなって行く形だの、個人思想と団体思想と何う調和されて行くかということだの、そうした形がこの方の文壇にもはっきりと色濃く反映して来ているのを私は見た。
「あの弱い文芸の流行るのも、そのためかしら?」
「そんなことはないだろう?」
「いや、いくらか、そういう形もあるのかも知れないね? この頃では、その証拠には、ニイチエだとか、イプセンだとかいうあの傾向はすっかりなくなって了ったからね?」
「そう言えば、そうだね?」
「何しろ、あのニイチエやイプセンは、何うしたって、今の自他融合主義の思想とは違うからね。何うしたって、軍国主義乃至侵略主義というようなところがあるからね。ドイツ系統の思想は、今は全く流行しなくなったね?」
「しかし、それは一時ではないからしら? 今は大戦の疲労で、互いに平和を唱えるような弱い素直な気分ができて来ているけれども、人間というものは根本がそうでないんだから、何うしたって、己は己というようなところがあるんだから、いずれはまたもとに戻るんではないかな………。そうだよ。たしかに一時だよ。その証拠には、ドイツの学術は非常な勢で盛り返して来ているそうだから』
『でも、まア、当分は、イプセンやニイチエは高閣につかねられると思わなければいかんね。他をつきのけて、おおっぴらで自分が出て行くようなことは、今はちょっとできなくなっている………」
「そうかね………? それにしては、ゾラは何うした?」
「あれは、同じつむじ曲りにしても、階級的だからね。個人と言うよりも、階級的に物を考えているからね。それで、今でも読まれるんだろうね。僕等の考では、それと正反対で、その点に行くと、イプセンなどの方が面白いと思うけれども………」
「そうかな、ゾラの読まれるのは、そういう形かね?」
「ゾラは昔からそうだよ。あの男は個人ということについてよりも、社会とか階級とかいう方に重きを置いた作者だからね。やはり、ユダヤ系統だよ。ユイスマンスがあとで反抗したのなども、そういう形があるんだね。ユイスマンスは、個人思想家だからね。社会とか、階級とかいうことよりも、人間──個人ということの方に重きを置いている人だからね。後には霊魂に深く入って行った人だからね。ゾラとは大分違うよ」
「つまりそうすると、こういうことになりはしないかね?」
「何う?」
「つまり、社会や階級に重きを置く作者と、個人に重きを置く作者と、こう二つにわかれて行きはしないかね?」
「そういう形はあるね。それは、ゾラの中にも、人間はいるけれども、それは社会や境遇の中に覆われた人間で、社会や境遇の上にでてきている人間ではないからね。社会や境遇が人間を駆使しているからね。それに比べると、ユイスマンスは全く違うからな。『大寺院』などを読むと、全くひとりになっているからな。………ゾラは初めから境遇などに重きを置くような作家だったよ。」
「ふむ! おもしろいな」
 私達はそこから今の階級文学というものをはっきり飲み込むことができるような気がした。社会に覆われた作家、境涯や社会が主として人間に影響するとのみ思惟している作家、そういう作家と一個人しか目に見ない作家との区別が私達には考えられて来た。何方がいいかということは、それは容易に言えないことであるからここには言わぬとして、そうした二つの大きな潮流が、外国の文壇にも流れていることを私達は思わずにはいられなかった。
「そうすると、何うしても、階級文学は社会というものの人間に及ぼす影響などということに重きを置いているという形になるんだね?」
「そうだね」
「そうすると、個人を重んじた作家とは、丸で正反対だね。個人を重んじた作家は、社会とか境涯とか、乃至は階級とかいうこと以上に個人をのみ見やうとするからね。従って前者は心理的にはならないという形だね?」
「そうばかりも言えないかもしれない。ドストイエフスキイなどは、階級的作家とも言えるし、心理的作家とも言える!」
「ドストイエフスキイ程度の心理では、非常にすぐれた心理的と言うことはできない。あの作家もやはり、社会ということの方を重んじた作家だよ」
「そうかな………? それでは、モウパツサンなどは?」
「あの人なんかも、社会はつとめて見るようにした作家には作家だね。しかしゾラと比べるとぐっとエゴイストでそしてサイコロジストだね。全体の調子に、何処か社会や階級を馬鹿にしたようなところがあるよ」
「成ほどねえ………そういうところがあるね。それから、日本の今の文壇では?」
「さア、日本ではまだ混沌としているね。社会意識とか、階級意識とかいうことは、まだ漠然としているね。従って作家にも、はっきりとそうした区別はついていないようだね。」
「里見弴はブルジヨアの張本人だっていうじゃないか?」
「それは、芸者を書いたり何かするからだろう。しかし、あの人のものは、階級的ではないね。何方かと言えば、心理派の方だね?」
「芥川氏は?」
「あの人だってそうだろう。階級的じゃないだろう。しかし、あの人は里見氏ほど心理派じゃないね。自己を出さないね。何か物に託した上でなければ、決して自分を出さない人だね?」
「それはそうですね」
「才人には才人だ。文章なんかにも新しいいい匂いがしている。しかし、今までのものでは、尠くとも「沙羅の花」に収めただけのものでは、才人という以上に他に名のつけようがないような気がするね。階級作家とは心理的作家との何方にも属せしめることができないほどそれほど才人だと思うね。新潮に『百合』という作があったが、あのあとを書かないが、何でも、苦しんでいるらしいのは、あの作でもわかるね。あの人の作では、『偸盗』だの『山鴫』だのがいい方だらうね?」
「菊池君は?」
「僕は菊池君のあの態度はすきだ──他は何と言おうが、僕は僕だと言ったようなところが好きだ。里見君と論じたのを僕は両方とも見たが、里見君は何処かキザなところがあるのに反して、菊池君は率直なところがあっていい。しかし、作としては、何がいいんだらうね? 読んだ時は面白いにしても、あとまで印象が残っているような作はあるかね? 『藤十郎の恋』『恩讐の彼方に』『父帰る』あれなんかいいのかね? その点に行くと、芥川氏や里見氏のものの方にもっとすぐれたものはありゃしないかな?」
「そうですな」
 文芸談が出る席上では、こんな話がいつも私の口から出た。皆なすぐれた才能と筆とを持っている人達だと私は思った。里見氏については、「上手すぎるくらいだね。立派な作家だよ。ただいつも言うことだけでも、あれで、あの変な鏡花の影響見たいなものがなくなると、一層いいと思うんだけども………。『直補の夢』なんかは上手だと思うけども、あの大阪のサンデイ毎日に書いた短篇などは、鏡花かぶれがしていて決していいとは思わなかったね。『直補の夢』も、あれで作者の意図──幇間とか女将とかいうものを書いて見ようという意図、それが見え透いていないと、なおよかったんだけどもね………惜しいもんだよ」こんなことを私は言った。一方、あの年でああしたものを書いたのは、ちと老成すぎはしないかという気もした。
 佐藤春夫氏のものについても、私は常に注意を払っていた。『都会の憂鬱』も処々読んだ。いいところがあるとも思った。しかし、何うしてかイヤに固苦しいところがあるのが気にかかった。またいやに詩人らしく気取っているところが気に懸った。『田園の憂鬱』を私はいいとは思っているけれども、あの薔薇を書いたところなどは、決して同感することはできないものであることを私は思い出した。なぜ、もっと自由に出て行けないのだらうか。なぜ、もっとテキパキ書くことができないのだらうか。何もそんなに詩人らしく気取って見せなくってもいいではないか。詩人らしく気取るということはかえってその詩人の尊厳を保つゆえんでないのを知らないのか。それに、無駄な努力をしている。何うでもいいようなところに一生懸命に力を浪費している。時には、何もこんなに骨を折らなくったっていい。もっと楽に書いた方がいい、その方がかえって効果が出て来る………。こんな風に思ったことも度々あった。