血の呻き 下篇(12) 完
五〇
暴風に虐まれて、狂おしく悩んでいる花のような、長い惨めな苦悩の日が続いた。
彼女は、全一日も、一言も口をきかないで、不気味なぎらぎらした眼で、凝然と壁を見つめて低く呻いていたりした。
そして発作的に、しくしくと泣き出すのだった。
霙が止んだ二日目に、彼女は急に静かになってしまった。
彼女は、午後に明三の胸に頭をつけて眠っていたが、眼をさますと、淋しい眼をして彼を見た。
「私、死んだ夢を、見たの……」
彼女は、弱々しいきれぎれな声で言った。
「きっと、死ぬのよ」
「…………」
「月の世界って、どんな所……?」
「それはね……。唯恐ろしい火成岩の灰色な山と谷ばかりなんだって……」
明三は、彼女の顔から総てを読もうとして、苦しみながら、言った。
「暗いんでしょう……」
「ええ。唯あんな青ざめた薄光があるだけなんですと……」
「然う、私死ねばそこへ行きそうに思われるの……」
彼女は、また口を噤んでしまった。それから二時間も経つと彼女は暗い水の底へでも沈んで行くように、深い昏睡に陥ちてしまった。薬を買いに行った少女は、帰って来ると、そっと彼の側へ寄って来て訊ねた。
「眠ってるの……」
「ひどく、悪いの……」
「そう」
少女は、暗い顔をして、蹲まった。
雪子はその時ふと眼を覚してけげんそうに彼等を見た。
「姉さん。お薬よ……」
「いいや、菊ちゃん、もういいの……。お薬は……」
「何故」
「済まなかったわね。もう、何もいらないのよ」
雪子は、詑るように少女に言って、深い息を吐いて明三に言った。
「お経を読んで下さらなくて、……何か」
明三は、寂しい低声で遺経(※遺教経?)を読みはじめた。彼女は、眼を閉って、暫らく聞き沈んでいたが、軈てまた深い昏睡に陥ちた。
青ざめた蠟の光りは、慄えながら垂死(※死の際)の娘の顔を照した。彼等は、その顔の上に顔を集めて、黙って凝視めた。少女は、涙ぐんでは何か言いたげに明三を見た。然し、彼女は、何も言うことが出来なかった。
夜の寂寞と暗がりとは、音もなく彼等を囲繞していた。暗い、生物には解らない寂しい影が、蝕うように彼女の顔を浸した。彼女の生命は、細い白蠟の、音もなく燃えくちて行くように、衰ろえて行った。
二度目に、彼女は身を慄わしながら、眼を覚した。彼女は、悩ましげにその眼を睜いていたが、盲かなぞのように手探りで明三の手を探し求めた。
「どうしたの、雪さん……」
明三は、慄える声で言った。
「手を……。きくちゃん……」
少女は、泣きながら、雪子に手を延べた。彼女は、菊子の手を固く握りしめ、明三の指を自分の唇にあてた。
「兄さん、さよなら……。きくちゃん……」
一言、一言きれぎれに、細い声で言って、遂に頭を垂れた。少女は、わなわなと慄えて泣きながら、彼女の唇を、カップの水で湿した。
明三は、彼女の肩を砕ける程も力をこめて抱きしめてその顔に接吻した。
雪子は、微かに眼を瞠いて、懐しげに、しみじみと明三に見入った。そして、微笑むように唇を動かして、再び眼を閉じてしまった。軈て彼女は地に頽れ落ちる花のように、静かに頭を垂れたのだった。
菊子は、床に打伏して、声を忍んで慟哭した。明三は、化石したように、茫然とその息の絶えた顔を見つめていた。彼女は、消えかかった蠟燭の灯光の下に、死んだ花のように音もなく、彼の腕の中に頽れていた。
慄える灯光は、遂に闇の唇に吸い込まれる。
そして、汚れた窓硝子を透して流れ入る、青ざめた月光が、この死んだ女を抱いた者と、ひれ伏して泣いている少女との上に流れた。
明三は、屍を横たえて、そこに立っていた白い花を挘ってその花弁を彼女の上に撒いた、そして慄える低声で、無常経を誦みかけたが、すぐに止してしまった。それから、彼女の側に坐って、黙然として俯れ、遂に床に額をつけて拝跪した。彼と、菊子とは、より添って屍の側で、夜を明した。
彼等は、その間中一言も口をきかなかった。そして、殆んど代り代りという程、そっと屍の顔を覗いてみては、遠い月を見上げた。
夜があけると、顰面をして、歎息を吐きながら、宿の老婆がやって来た。
「困った事だ」
彼女は、何かぶつくさ口叱言を吐いて行ってしまった。磨師は、すぐにやって来た。そして、何も言わないで黙って屍の所へ跪いた。彼は、掌を合せて、凝然と屍の顔に見入った。
弱々しい光りが、死んだ彼女の顔を滲していた。
地に散り落ちた花のように、屍は永遠に然うしているような姿で、そこに横たわっていた。その蠟色の顔は、寂しい憊れたような微笑を含んでいるように見えた。白い花弁は、撒華のように彼女の屍の辺りに散らばっていた。
磨師は明三の顔を見ないようにして、その手を固く握りしめた。
「棺も、それから……」
彼は、自分一人に相談して出かけて行った。
日暮方になってから、棺が届いた。
彼等は、穏かに彼女の屍を、その中に横たえた。
少女は、泣きながら、彼女の好きだった、白い『死のような匂いの花』の花弁をその上に振りかけた。明三は、老医師の、骨甕をその側に納めた。
「いけない、お前は……」
磨師は、何か言おうとしたが、彼の顔を見ると、黙ってしまった。
彼は、宛然心臓に針を刺されでもしたような、痛々しい顔をしていた。
菊子は、驚ろいたように彼を見たが、急に彼の手を握って、声を立ててその足下に泣き伏した。
明三は、棺の中に横たわった雪子の額に、最後の長い接吻をした。涙は、彼の眼から、屍の穏かに閉じた瞼の上に流れた。
菊子は、その間中彼女の手に取縋って、口の中でお別れを言った。
棺は、遂に蓋で覆われて、黒い覆の着いた低い車に積まれた。そして、磨師と、保険屋とに挽かれて、そこを出た。
寂しい葬儀の群は、日が暮れ落ちてからyの共同墓地へ着いた。
墓坑は、共同墓地の北隅の草原の中にあった。彼等は柩をそこへ降すと、溜息を吐いて、そこを離れ去った。
保険屋は、車を挽いて丘を下りて行った。磨師は、凝然と明三を凝視めていたが、遂に何か訳の解らない独言を言って、歩き出した。
明三は、力なく鍬を取って、棺の上に土をかけ始めた。
陽の光りは、全く沈み尽して、灰色の低く垂れた空には、微かな歎息のような、薄光も漂っていなかった。
菊子は、そこに踞まって、両手で顔を掩うていた。土は、音を立てて、柩の上へ頽れ落ちた。
明三は、幾度も手をとめては、暗い坑を覗いた。柩は、寂然として永久に黙っていた。彼は、また一鍬毎に喘ぎながら土をかけはじめる。
寂しい風が、音を立てて地を襲って来て、灰色の低く垂れた空からは地に暗い雲を降り濺いだ。
寂しい慄える白布のような残光は、夜の唇に吸い尽されて、死の掩布のような、黒い闇が地を掩うた。
明三は、遂に墓坑を埋め終った。彼は、茫然と霙に降られて跼まっていたが、頽れるようにそこに跪いた。そして、顔を掩うて啜り泣きし出した。
「帰りましょう。兄さん」
少女は、彼により添って、その肩に手をかけて、言った。
「…………」
「ねえ」
「何所へ……」
明三は、喉を締められたような、惨めな声で言った。そして、軀を慄わして地に泣き伏した。
「どうしたの……? 兄さん」
少女は、怯々した顫い声で言って、彼の肩を摑んでそこへ跪いた。
明三は、地に頽れ伏して、顔をあげなかった。
彼女は、彼に取縋ったまま、不可解な悲しみに襲われて、惨めに啜り泣き出した。
暗い雲は、彼等の上に欷歔くように降りしきった。夜は、永遠の寂寞をもって、彼等の上に垂れ下った。
血の呻き(了)