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第44節

 永井荷風氏は何方かと言えば、後期よりも前期の感化の多かった人であった。その本当に文壇に名高くなったのは、帰朝以後で、正宗氏よりは、ぐっとあとであったけれども、その教養わずっと前に遡るべきものであった。かれは半分以上硯友社気質であった。かれは曽て広津柳浪に師事した。またい巌谷小波の木曜会の同人であった。つまり紅葉に藻社の連中があったと同じように、小波に木曜会同人があったが、その一人で、生田葵山、黒田湖山、西村渚山など皆なその夥伴であった。しかしかれはそういう夥伴に満足してはいなかったに相違なかった。かれは鷗外氏のものなどを愛読した。また外国のものなどをも渉猟した。明治三十三四年頃、即ちかれがまだ海外に赴かない以前にあっては、かれは新しい作家の一人として次第にその頭を抬げつつあった。かれはその時分ゾラの『ナナ』を抄訳した。また『地獄の花』という半分通俗な小説を公にした。
 この頃は硯友社の権威が凋落して、しかもそれに代るべきものがまだでてこないという混沌とした時代であった。いわゆる鷗外漁史の末流文壇と言われる時代であった。風葉、天外などが一方にはいたけれども、それに慊らなかったのか、それともまた別に理由があったのか、その時分には、草村北星や菊池幽芳や田口掬汀や柳川春葉の通俗小説などが流行した。そして一時はそういうものの方が本当ではないかとすら思われた。『地獄の花』はいくらかそれにかぶれたような作品であった。
 しかし数年経って、海外から帰って来たかれは夥しく変っていた。文壇そのものの変ったよりももっと著しく変っていた。かれは海外にあって、故国の文壇の変って行くのに目を睜ったひとりであったが、帰るとすぐ、『歓楽』だの『監獄署の裏』だのを公にして、一挙にして有名な作家となった。『アメリカ物語』では、その文章の幼稚と不統一とでかなりに手痛く批評されたかれも、『フランス物語』に行くと、すっかりその古い衣装をぬぎ捨てて、フランス仕込みの奔放な自由な描写と態度とを示して来た。
 しかし聡明なかれは、敢てその当時の文壇の思潮に深く浸ろうとはしなかった。かれはあるいは右しある左した。それに一面、新しい思潮に雑り切ることのできないような前期の教養をかれは十分に持っていた。それに、度々の発売禁止──それは生田葵山氏の作物などと同じに見られた発売禁止がかれの気を腐らせずには置かなかった。次第にかれは皮肉になって行った。わざと傍観者を衒うやうになって行った。
 かれの全集を見ると、そうした傾向がよくわかった。かれは何と言っても前期の教養の下に育った文章家であった。真に迫るということよりもむしろ美にあこがれるという方のロマンチシストであった。新しい自由と表現と皮肉とは十分に持っていたけれども、何処か文の為めに文を書き、美のために美を誇張するという風があった。『新橋夜話』などという短篇集も面白いものには相違なかったけれども、形においてお話であるばかりでなく、精神においても、傍観的に過ぎるような気がした。もっと本当のことを書いて貰いたいような気がした。
 しかし、かれに取っては、その本当ということが問題であるらしかった。本当とは何ぞや? こうかれは反問して来るに相違なかった。
 しかし、抱月や泡鳴や、藤村や、白鳥や、芦花や、そういう人達の中にかれのような作家の雑っていたということは、面白い現象と言わなければならなかった。