第60節
早稲田から出た人達の中にも、いろいろな作家がいた。相馬泰三氏だの、広津和郎氏だの、吉田弦二郎氏だの、葛西善蔵氏だの、数えれば、まだこの他にも沢山に沢山にあった。
しかし、そういう人達でも、もはや決して新進作家ではなかった。あとに一時代も二時代も控えていた。そう大して為事をしない中に、皆な中老の形になったなどと言われていた。
相馬君にしても、広津君にしても、皆なすぐれた作家だった。てんでにその持った味は違っていたけれども、自由な、真面目な、早稲田らしい感じは互いに共通していた。吉田君などには、もう少し解剖とか観察とかいうことを勧めたいような心持がしたけれども、しかしその持った境は完成したものだった。葛西君の芸術味などは、早稲田にはめずらしいものと言わなければならなかった。
早稲田からも、しかし、おりおり感じの違った、味の違った作家が出た。長田幹彦氏が早稲田出身であるなどとは、ちょっと誰も思いかけないところであるに相違なかった。宇野浩二氏などもやはりそのひとりだった。
宇野氏は一種特色のある作家と言うことができた。決して私はそこからすぐれた芸術を望みはしなかったが、またとてもああした心持から、真面目な、正面な、また突詰めた芸術はできはしないと思ってはいるが、しかしユニツクであること──あのスタイルでなければああした馬鹿げた味も感じもでてこないということは、不思議な感じを私に誘わずには置かなかった。私は思った。あれはあれでいいのである。何も言う必要はないのである。あれに向って、やれ現象主義が何うの、人道主義が何うの、表現主義が何うと言ったところで、それは問題にも何にもならないのである。こう私は思った。私は始めは氏は近松秋江氏あたりから脈を引いてでてきて、男と女のことにかけては、かなり深く入ることのできる作者と思っていたが、次第に、ああいうスタイルでは、ああいう感じでは、ああいう味では、とても深い男女の問題の奥まで入って行くことなどはできないと思われ出して来た。氏の筆にかかっては、何んなに真面目なことでも、一種わきに外れた、それとは丸で別なものに対したような感じを味わせられずにはいられなかった。氏の閲歴を書いたようなものでも、丸で別なことが書かれてあるようにしか感じられなかった。それに、氏は早稲田とは言えなかったかも知れなかった。ただ、一時、早稲田に籍を置いたくらいなものかも知れなかった。
長田幹彦氏は、今では新聞小説家として、その方で非常に活躍しているようであるが、また氏としては、その方が自分の本当の為事の様に言っているが、私としては、ああいうものよりも、『澪』だの『零落』だのを書いた頃の方が本当ではないかと思われた。しかし、氏の考では、何もああしたものばかりがいいというわけがない。今、やっているような小説の中にも、いい本質があるならひとり手にそれがでてこなければならないはずである。何も雑誌に出る小説だからとか、新聞に載る小説だからという区別があるわけはないはずである。こう氏は言っているかも知れないが、しかし私はそうは思わない。芸術というものは、ちょっとした心の持方で、非常に感じが違って行くものである。心の震え方いかんで、感じが丸で違って行くようなものである。何うしても一度はもっと真に迫る芸術にもどって来る必要がありはしないかと思われる。
新聞小説というものは、何うもいけない。縛られまい縛られまいと思っても、いつか通俗に捉えられて行って了うものである。それに、新聞の標準というものが第一義的でない。社会も社会、ぐっと下の、低級な、平凡な社会を目安にしているという形がある。第二義的、第三義的に面白くさえあればいいと思っている。いくら進んだ新聞だと言ってもそうである。従って新聞に小説を載せるということも、またそれに書くということも、決してしっくりはまったこととは言うことはできない。できることなら、作者は単行本としてその書いたものを発表すべきであろう。
早稲田では、作家の他に、金子筑水氏があった。また長谷川誠也氏があった。共に明治大正文壇に大きな貢献をされた人達であった。またこれについでやや新しく片上(※─伸)、吉江(※─喬松)両氏があった。いろいろな意味において倶に近代の小説に深いその感化を与えつつあるということができた。今日では、両氏のあるがために、早稲田の学風が著しく活気を帯びているということは、争われない事実であった。その他、小川未明氏が近年著しくプロレタリアの色を濃くして来たことも、注目すべきことのひとつであった。
早稲田出身の作者の無邪気で素樸(※原文ママ)であるのに反して、慶応から出た人達には豊かなのんきなところのあるのを私は見た。そう言って了っては、あるいは断定すぎるかも知れなかったけれども、早稲田にはプロレタリアに近い人達が多く、慶応にはブルジヨアの家庭に生い立った人達が多いらしかった。従って慶応から出た作者には、生活難を問題にしたような作は尠なかった。大抵は情緒を重じたり、恋を誇張したりするような作家が多かった。わるく技巧を重んずる作家などもあった。
久保田万太郎(※小説家、劇作家。慶応。獅子文六と岸田国士らと文学座を創立。浅草雷門の袋物製造屋の忰)氏、水上滝太郎(※小説家。慶応。明治生命創業者の四男)氏、共にすぐれた才筆を持った作者であると言って好かった。前者には東京の浅草あたりを舞台にしたものに非常にいいものがあり、後者には外国をシインにしたものにすぐれたものがあった。その他松本泰(※小説家、推理作家。慶応)だの、南部修太郎(※小説家。芥川に師事。慶応)だの、佐佐木茂索だのという人達がいた。賑やかな群と言って好かった。
これに限らず、私立大学では、皆な文科を置くようになったから、これからは、いろいろな「派」といろいろな「群」とが沢山に沢山に出て行くであろうとは思われた。