血の呻き 上篇(3)

         三

 次の日、めいぞうが戸口から出ようとする時、背後からおいついた少女が声をかけた。
「あのね」
 彼は、振返った。十二位の緑色の古びたマントを着た、可愛らしい顔の少女が、おどおどと立っていた。その顔には異様な病的な疲労の痕が、暗く漂っていた。彼女は、不自然なほど大きな、輝きのある美しい眼をみはって、彼の眼に見入ったが、気まり悪そうにうなだれて微笑した。
「あのね、兄さんは、鷲なの。そうじゃないわね……」
「鷲! いいえ。何故なぜ……」
 明三も、微笑しながら言った。
「だって、姉さんがそう言うの……。うじゃないでしょう」
「ああ、あれは、私の事……」
 彼は、頭の中でうめきながら、きれぎれに独語のように呟いた。
「あら、兄さんは聞いてたの。昨夜……」
 明三は叱られでもしたようにうなだれた。
「まあ……。姉さんは、そして泣いてるの、何故なぜ兄さんは、姉さんの所へ行かないの」
「だって、私はお友だちではないんですよ。私は、姉さんの名さえ知らないよ」
 彼は、苦しげな声で答えた。
「嘘を……雪子っていうのよ。姉さんはみな知ってるのよ。兄さんの事を。そして、そしてね……。あの……、ほんとうに、鷲じゃないわね」
 少女は何か口籠って独言のように言った。明三は、悩ましげに呟いた。
「鷲じゃないよ。坑夫だよ。人の立っている土にあなを掘ってる……」
「何の事なの、それは……お父さんは、自分は、つちくれだっていうし、おかしな人ばかしだわ……」
つちくれ、……ふうむ。お父さんは、何所どこにいるの」
「姉さんの所にいる。……医者よ」
「ああ、しかしお父さんは、姉さんの何なの……」
「何でもないのよ」
「あなたは」
「私は、私はね、きく。兄さんは藤田明三って言うんでしょう」
「そうだよ。……じゃあ、姉さんは一人でいるの。今……」
 明三は、こわごわしながら、たずねた。
「姉さんのお父さんがいるんだけど」
何所どこに」
「いい所。ほんとうはね」
 少女は、声をひそめてささやいた。
「O町に……。ばくをやる人よ。松浦って……。わたしは、そこへ時々行くんだわ。番兵に雇われて……」
貴女あなたが……」
 明三は、少女の肩に手を措いて言った。
 きく子は、うなだれて彼の腕の中にもたれかかった。
「どうして、雪さんのお父さんは、此所ここにいないのさ」
「知らないわ。私……。きっと……」
 少女は何か言いかけたが、彼の顔を見て急に口を噤んだ。
「姉さんは、可哀相だね」
 明三は、おずおずと言った。
「そうか。彼女にも親があるのか」
 彼は、頭の中で独言した。
「そうよ。姉さんは、……いやそれよりも、私、お父さんが可哀相だ……」
何故なぜ
「お父さんは、お父さんはね、……あの……」
 その少女は、探るように彼の眼に見入るのだ。
「いいやお父さんは、死んだ方が、いいんだわ」
「……………」
「だって、お父さんがそう言うのよ」
 明三は、少女の手を握りしめていたいたしい顔をした。
「さあ、もうそんな話はしないでおくれ」
 二人は、悲しげに顔を見合して黙っていた。
「ね、姉さんの所へ行きましょう」
 しばらくしてから、また少女はせがんだ。
「ええ。だけど……。お父さんは昨夜何所どこへ行ってたの?」
「お薬買いに。それをこしらえて私、売りに行くのよ」
「きくちゃんはそして、ずっとその仕事をしていたの?」
 明三は、何かほかママ事に考え込みながら唇だけでたずねた。
「そうよ。さあ行きましょう。兄さん」
う。じゃあ行こう」
 明三は、深い溜息をついて言った。
「でも……お父さんが、きくちゃんのお父さんが、いるの……」
「いいえ。お父さんは、お薬をこしらえてるの。で……」
 明三は、そこへ行こうとする自分をおさえる事がきなかった。
 彼は、しかし刑場へ引出される囚人のような哀れな歩調で、おどおどふるえながら、少女の後にいて行った。
 彼等がはって行った時、雪子は、うとうとと眠っていた。明三は、そのまくらもとひざまずいて、哀しげに彼女の顔に見入った。娘はすこし口を開いて、不揃いな痛々しい呼吸をしながら、悩ましい眠に陥ちていた。それは、萎れたシロアオイのような弱い、いたいたしい姿であった。
 彼女は、きく子のはって来た足音に、眼を開いて微笑もうとしたが、まくらもとひざまずいている彼を見ると、何か、発作でも起ったように、ぶるぶるとふるえた。地面に額をつけている病み疲れた花が、嵐に戦くように。そして、すぐに夜具に顔を埋めてしまった。少女は、不思議そうな顔をして彼女の肩に触って言った。
「兄さんが来たのよ。姉さん」
 彼女は、切なそうに顔をあげてまた、じっと明三に見入った。
「ああ、貴女あなたは……」
 明三は、口の中で、何か呟くように言った。
「ひどく悪いんですね」
「ええ。だけど……。あの……」
 雪子は、訳の解らないことをきれぎれに言った。
「私……」
「いや、しかし、貴女あなたは……」
「私、死ぬの……」
 明三は、しめにかけられたような苦しげな顔をして、おしだまった。
 かの荒み果てた沙漠のような胸の暗がりに咲き出た、怪しい花は、欷歔すすりなくようにおののいた。
「姉さんはまた、そんな……」
 少女は泣くような声で、呟いた。
「人間て奴は、みな苦しんで馬鹿を見て死んでしまうんです」
 明三は、自分が何を言ってるかも解らないような風で重苦しくうめくように言った。雪子は、啜り泣いていた。その時、医師が薬の鉢を持って、はって来た。彼は、じっと哀しげに彼等を見ていたが、一言も口をきかないでそこへ薬を置いて、へやの隅の方の壁に向いて黙り込んでしまった。
 明三は、石を持って追われたもののように、そのへやを出た。しかし、彼が戸外へ出ようとした時、少女が追着いて彼の手を握った。そして、体に顔をすりつけて、泣くような声で言った。
「兄さんは、どうして、姉さんを苦しめるの……」
「苦しめる?……」
 明三は、泣き出しそうな歪んだ顔をして呟いた。
 彼女は、彼のがいとうの袖に顔を押あてた。
何所どこへも、行っちゃ駄目よ。兄さんは、ね……」
何所どこへも行かないって、姉さんに言っておくれ。私は、どこへも行く所がないんだって、ね」
 そして、彼女の髪を撫でた。
 少女は涙の浮んだ眼で、彼の顔をじっと見入っていたが、またへやの中へ走り戻った。彼は、両手で頭をつかんで、走るように、そこを歩み去った。