第1章 浅草 朝から夜中まで(1)
沈んでいる塵芥箱 五時
浅草は、一個の塵芥箱(註※ごみばこ)から、夜が明ける。
宮戸川の川面から、湧きのぼった乳白の朝の気が、音もなく、路地の中に流れ込んで来る。
乳白でもある。紫色でもある。その静かな気流の底に、沈んでいる塵芥箱。
一人の乞食が泳ぎ寄った。彼は、朝が湧いて来る方から、泳いで来たのだ。だから、昆布のような彼の袖と裾とが、ゆるくなびいているのである。
彼は塵芥箱の蓋をあける。覗き込む。掻き廻しているようである。何か、つかみ出した。彼の袋が、少し膨れた。
彼は元通りに蓋をすると、泳ぎ避ってしまうのである。
ほんのしばらくの、時の間。
別な乞食が泳ぎ寄った。彼は塵芥箱の蓋をあける。覗き込む。掻き廻しているのだ。何か、つかみ出したようである。彼の袋が膨れあがったのだ。
彼は、元通りに蓋をすると、泳ぎ去って行くのである。
彼が去ったばかりの箱へ、追っかけるように、別な黒いかたまりが、あえぎ寄った。
かたまりは、箱の蓋をあける。かたまりは箱のふちにおおいかぶさって蠢いている。かたまりがふちを離れた。切り捨てた葱の青い部分の一束を、抱え込んで行くのである。なぜか、青葱の切り口が、ハッキリと見えるのである。
かたまりが開け放して行った塵芥箱のふちに、いつの間にか、別な浮浪者が、ひッついているではないか。彼は、もぞもぞと掻き廻している。いつまでも、何時までも、掻き廻している。眼のいたくなるほど、見つめると、彼は何か食っているのだ、モグモグ、ひげの裏で口を動かしているのだ。
ややあって、彼は泳ぎ去ってしまう。
後から、後から、泳ぎ寄る影が、箱の中から、それぞれに何か知らん、つかみ出して行くのである。
あの塵芥箱の中には、何がそんなにしまってあるのであろう。
やがて、うす紫の気流の漂いが、幕のように曳かれて行くと、地下鉄の塔の背のギラギラの太陽を感じて、塵芥箱は汚れたその木目を恥もなく現しはじめた。
底本
浅草底流記 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916565/17
コマ番号 17~18