見出し画像

第2節

  ※7げんぶんいっの文章を書こうとした運動は、しかし何と言っても、一番新しい進んだものであらねばならなかった。つまりそういう運動は、英語から入って行って、向うの詩や小説などに接して、不知半解のそしりは免れ得なかったとはいえ、かく、それを真似ようとしたものであることはたしかであった。うも今までの文章の書き方では面白くない。直写が出来ない。細緻な描写が出来ない。かその人達は思った。否、そうまではっきりと意識してはいなかったかも知れないが、その場合、外国の文学を模倣することが一番必要に感じられて来たのであった。で、最初の外国からの影響── ※8ビイコンスフイルドはくの政治小説などの影響から一歩を進めて、 ※9やま ※10がわ ※11ざき三氏の言文一致の運動が始った。
 この三氏の中で、山田氏のは一番早くあり、また一番世の嗜好にも投じたらしく見えた。かれの教化は全く英語から来た。その詩は ※12ミルトン、 ※13シエレイあたりを模倣した。小説は ※14スコットあたりを読んだらしかった。読売新聞に出た『 ※15武蔵むさし』という一短編は、かなりに評判であったけれども、その文体のかわっていたことと、感じ方が当時にあって清新に思われたこととの外には、大してすぐれたものではなく、また『 ※16こくみんとも』の附録に出た『 ※17ちよう』なども、ただ、ハイカラであったために、一種のセンセイシヨンをおこしたに過ぎなかった。『 ※18いらつめ』という雑誌があるが、それは山田氏の経営してその本拠としたものであったが──今でも上野の図書館に行けば見ることが出来ると思うが、これなどでも大したものでないのが一見してすぐわかった。しかし、それを馬鹿にすることは無論出来なかった。何故と言うのに、そこから明治大正の新しい文章がその芽を出し始めたのだから──。
 山田氏の英語から出たのに対して、長谷川、矢崎の二氏が露語をその外国文学模倣の対象にしたということは、面白い興味のおおいことであった。長谷川氏は ※19ツルゲネフの『 ※20あいびき』を『国民之友』の第一巻第五号に載せた。あるいは山田氏の『武蔵野』よりも早かったかも知れなかった。そしてその翻訳が、その翻訳の言文一致が、いかに不思議な感じを当時の文学青年に与えたか? いかに珍奇と驚異との感じをその当時の知識階級に与えたか。現に、私などもそれを見て驚愕の目をみはったものの一人であった。『ふむ………こういう文章も書けば書けるんだ。こういう風に細かに、綿密に! 正確に!』こう私は思わずにはいられなかった。想像してもわかることである。あの当時の漢文崩しの文章の中に、または ※21ちかまつばり ※22こうそんばりと言った、とうも何もないような、べらべらとのっぺらぼうに長く長くばかりつづいているような文章の中に、あの?や!や、──の多い文章が出たのであるから。またとうの短い、曲折の多い、天然を描いた文章が出たのであるから。
 私達当時の文学青年は、何遍あれを繰返して読んだか知れなかった。母親にも読んできかせれば、兄や弟にも読んできかせた。 ※23、あの最後の「ああ秋だ! くうしやの音が虚空に響きわたった………』というあたりは、何とも言われない感じを私に誘った。否、かなりに後までも、野原に行きなどすると、いつも私はそれを思い出した。
 今日から考えれば、無論、それは大したことではない。ツルゲネフの『 ※24りようじんにっ』の一節の翻訳など、高が知れていることである。しかし、その時代にそうした翻訳が出たということ、そのことがたっといのであった。その芽が何とも言われずたっといのであった。
 それに、こういうことが言われた。山田氏乃至ないし ※25つぼうちの英語から英文学が入って来たと同じように、長谷川、矢崎二氏からロシア文学が入って来た。他の文学──たとえばフランスとか、ドイツとか、スカンデナビアとか以上にロシア文学が明治大正の文壇に深い影響を及ぼしたということは、どうしても二氏の早い提唱にそのこうを帰さなければならなかった。
 矢崎氏に『 ※26はつこい』という短編があった。それは『 ※27みやこはな』に出た。価値としては、そう大してすぐれたものではなかったけれども、その時代において、氏がいかに早くツルゲネフの感化を受けていたかということを知るには、 ※28こうの材料であった。長谷川氏の『 ※29うきぐも』の中には、 ※30ゴンチヤロフの描法がはっきりとゆびさされた。

※7げんぶんいっ……「話しことば」と「書きことば」を一致させること。「こうたい」がげん。「漢文体・文語体」がぶん。習得が比較的容易な「口語体」による読み書きによって、明治維新以降の西欧文明化の推進、日本国民のけいもうを目的としていた。
※8ビィコンスフィルドはく……ビーコンスフィールド(生没年不明)。冒険小説『昆太利コンタリーニものがたり』(一八八八)の著者。
※9やま……─みよう(一八六八─一九一〇)。小説家、編集者。『武蔵むさし』(一八八七)。
※10がわ……ふたていめい(一八六四─一九〇九)の本名。小説家。
※11ざき……むろ(一八六三─一九四七)の本名。詩人、小説家。
※12ミルトン……ジョン・─(一六〇八─一六七四)。イングランドの詩人、思想家。『しつらくえん』(一六六七)。
※13シェレイ……パーシー・ビッシュ・シェリー(一七九二─一八二二)。イングランドの詩人。
※14スコット……ウォルター・─(一七七一─一八三二)。スコットランドの詩人、小説家。『じようじん』『アイヴァンホー』
※15武蔵むさし……げんぶんいったい小説の先駆け。やまみようが一八八七年に発表。
※16こくみんとも……みんゆうしや発行の雑誌。とくとみほうが一八八七年に創刊。もりおうがいまいひめ』等を連載していた。
※17ちよう……やまみよう/著。一八八九年発表の歴史小説。女性裸体画の挿絵を掲載して発売禁止になった。
※18いらつめ……創刊まもなくの『』は女性雑誌だったが、山田美妙が編集に関わるようになってから誌面は文芸色を強めた。
※19ツルゲネフ……イワン・ツルゲーネフ(一八一八─一八八三)・作。ロシアの小説家。ドイツやイタリアやフランスに留学滞在経験がある西欧派作家。『りようじんにっ』(雑誌発表は一八四七年)。
※20あいびき……ふたていめいがツルゲーネフ『りようじんにっ』中の一編を翻訳したもの(翻訳発表一八八八年)。
※21ちかまつ……─もん左衛門ざえもん。(一六五三─一七二四)。江戸前期のじよう作者。きようげんも書いた。じようざきしんじゆう』(一七〇三)。
※22こうそん……饗庭あえば─(一八五五─一九二二)。小説家、劇評家。ぎしの中心的存在。小説『とうせい商人あきうど気質かたぎ』(一八八六)。元禄文学評論集『すずめおどり』(一九〇九)。
※23ことに……ことに。「とくに」「なかでも」の意。
※24りようじんにっ……ツルゲーネフの短篇小説集。
※25つぼうち……─しようよう(一八五九─一九三五)。小説家。評論集『しようせつしんずい(全九巻)』(一八八五)。『とうせいしよせい気質かたぎ』(一八八五)。
※26はつこい……むろ/著。一八八九年発表のオリジナル短篇小説(一八八九)。ややこしいが、ツルゲーネフの短篇小説『初恋』に影響を受けて書いたもの。
※27みやこはな……きんこうどうが発行していた商業文芸誌。一八八八年創刊。二葉亭四迷『うきぐも』等を掲載。やまみようが編集に関わっていた。
※28こう……「ちょうど良いこと」「適当」の意。
※29うきぐも……二葉亭四迷によって言文一致体で書かれた最初期(一八八七年)の長編小説。
※30ゴンチャロフ……イワン・─(一八一二─一八九一)。ロシアの小説家。長編小説『オブローモフ』(一八五九)、『だんがい』(一八六九)。