第五章 喧嘩
「それは違うよ。第一母の愛と、僕の愛とは違うよ。僕は人から侮辱されることは、死ぬよりも嫌いなんだからな。」
私の言葉が切れると、石崎はこう云って、私のそれもこれも、みな足蹴にでもするような調子でもって反對してきた。
「それやそうさ。違うと云えば違うさ。だがしかし、君は全然憎くてそうした譯じゃないんだろうじゃないか。それを君は……」と私が云っていると、石崎は、能くも私の云うことを聞かずに、
「いや僕は、憎くて憎くて溜らなくなったから、蹴飛ばしてやったんだ。外に理由があるもんかい。」と云って、彼は無闇と私に突っかかってきた。
「だがしかし。」と、私も其處へくると、少し急きこんで口を切ると、
「だがしかしも、然り而してもないじゃないか。僕はそうなんだ。小癪に觸って溜らないから、蹴飛ばしてやったんだ。若しそうしたって構わないものなら、僕は生かしちゃ置かなかったかも知れない。」と云って、石崎は私の言葉を叩きおってしまった。叩きおられた私は、ますます不愉快になった。其の刹那には、私はまた凡べてを忘れて、溜らなく憤りさえ感じた。それが幾分頽れていってからも、私はもう口を利く氣にはなれなかったので、それから暫く默っていた。
すると石崎は石崎で、彼も私とは形影其のもののように、默ってしまった。そして、これは私の心なしか知れないが、彼は其の時、如何にも勝利者らしい表情をみせて、さもうまそうに敷島を吸っていた。それが、──其の不愉快な、鼻塞りそうな沈默が、丁度私が半分くらいになっているバットを吸いつくすと同時に破れてしまった。私は其の場合、簇りおこる不快感を征服して、少しでも石崎よりは人格者らしく振舞いたいと云う希望が胸へ湧きあがってきた。で、私は、
「まあ、そう云えばそうだ……」と云って、ちょっと間を持ってから「だが、出來るだけ喧嘩は止すんだな。詰らないじゃないか。喧嘩なんぞしたって。それよか、思いきり面白く、樂しくやるんだなあ。」と云ったものだ。云うまでもなくそれは愛兒を勞わる慈母のような調子で云ったのだ。
「そうさ。出來るだけそうするんだな。」
石崎は輕くそれに應じたが、其の言葉の中には、微塵眞實らしいものは働いていなかった。それがまた私を不愉快にしたが、しかし私は、彼が表面では、飽くまで强者らしく振る舞っていても、衷心は愛の飢渴と、爭鬪後の寂寞さに堪えられないものがあるのだろうと思うと、一味の愛憐さを覺えてきた。
「今夜は、君は行かないのかい。」
私は其の時、少し其の場につかぬことだと思いながらも、こう云って聞いてみた。
「何處へ。」
「分ってらあなあ。折ます先生のところへさ。」
「行く譯がないじゃないか。蹴殺し損った尼のところへ、行く隙なんぞがあるもんかい。僕はそんな隙があれば、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕(※センズリこいて)、寢らあな。」
「じゃ、折ます先生のところが厭なら、何處か他處へいって、第二の種蒔きをしたって好いじゃないか。でなきゃ、酒を飮みにいくとかさ。」
「そうだ。酒なら好いなあ。一杯迎え酒と出掛けたいや。」
「そして、醉ったところで、「小夏善吉、逢引の場」とくりゃ、文句がなかろうじゃないか。」
「ふうんだ。冷やかしちゃいけないぜ。誰がああ云う畜生なんぞと逢うもんか。ただ僕は酒を飮みてえや。」
「じゃ、飮みに行ったらどうだい。」
「ところで、生憎くと今夜は、其の飮み代がないので、弱ってるのよ。」
石崎は、煙草で薄く汚れている前齒をみせたと思うと、
「それとも君は、親切があるなら、僕にそれを貸すかい。」と云って、一つ顎をしゃくって置いて、また前齒を出してみせた。
「常談云っちゃいけない。其の點は、僕の方が色男だぜ。」
「どうしてよ。何が色男なんだい。」
「だって、そう云うじゃないか。『色男、金と力はなかりけり』って。」
「なんだい。古い洒落だな。」
石崎は仕方ないように苦笑した。
私も、ついそれに引っこまれて苦笑した。そして、いよいよ私の無心が、駄目だと觀察していたそれを確めたと思うと、一時に髪を殘らず引拔かれたように、甚しく寂しくなってきた。また、私の脚の痛みは、それを劃して、一段と烈しくなってきたように覺えた。
ところで、微塵そう云うことを知らない石崎は、それから二三友達の噂さをしだした。また彼は、英譯で読んだのだとか云う、佛蘭西の小說、──書名はなんとか云ったが、それの梗概を話したりした。──其の小說の主人公が、遺產數十萬圓を、酒と女とに費消してしまって、最後は乞食になって果ててしまったと云うそれを談じて、自分も其の男のように振舞いたいものだと云いもした。だがしかし、私はそれにも、なんらの興味も持てなかった。ただ其の話が、私に加うるものがあったとすれば、それはいやが上にも、私に人生の悲痛索莫さを思わしめたに過ぎなかった。──私には、幾くら費消したくとも、先ず費消する金がない。費消する金がなければ、幾くら酒や女に親しみたくとも、到底其の望みは達せらるべくもない。そう思うと私と云う者の一生は、遺失したこともない物を、夢中になって探求しつつ終る者のように感じられてきた。私には、嘘にもそう云う希望を持つことの出來る石崎のことが、今更に羨ましくて溜らなくなった。だが私は、石崎から、
「好いじゃないか君、どうで使えばなくなる金なんぞを儲ける爲に、汗水を流すより、出來るなら僕は、もうちゃんと貯蓄されてる金を、使いはたす方に汗水ながして終りたいよ。」と、こう云われた時には、
「そりゃ僕も同感だよ。出來るものなら、僕もそうしたいよ。」と云っている中に、私の胸はひとりでに、冷めたくなってきた。同時に雙の眼からは、今にも淚が溢れおちそうになってきたので、私は態と顏をそ向けた。其の時机の上の置時計の短針が、もう十一時近くへ、這いよっているのが、ちらりと私の眼についたので、
「じゃ、僕は歸えるよ。」と云って、吸いさしのバットを、火鉢の中へ突きさしたが、其の時また、谷底へでも落ちこんだような周圍の靜寂さが、一時に身に迫ってくるのを感じた。と同時に、外は雨になっているようなけはいを直覺した。
「好いじゃないか。話していきたまえな。」
石崎がこう云うのを耳にしながら、
「もう十一時だよ。それに、雨じゃないか。」と云って、私は立って、其處の障子を開けてみると、もう雨は通った後らしかったが、軒先へ間遠うに落ちてくる雫が、内の電氣を受けて、きらりと光るのが私の目へついてきた。
「降ってきた。」
石崎は私の言葉の後から、半ば獨語のようにこう云って、「じゃ、傘を持っていきたまえな。それに、惡いんだけれど、足駄もあるよ。」と附けくわえてくれた。
「いや、雨はもうあがったらしいよ。まだそうたいして、路は濡れてやしまいから、足駄は入らないよ。──また足が痛みくさって弱ってるんだ。だから、結局僕には、下駄の方が勝手なんだ。」と云ってから、また言葉をついで、「じゃ濟まないが、傘を一本貸してくんないか。もう大抵大丈夫だろうけれど、用意に持ってくから……」と云うのを、引ったくるようにして、
「ああ好いとも、持ってきたまえな。」と云いながら彼も立ちあがって、「そいつあいけねえな。大事にしたまえ。惡くしちゃっちゃことだぜ。」と見舞いを云ったりして、私の後から跟いてきた。
「ありがとう。なあに、大丈夫だよ、惡くなっちゃったら、今度は首諸共に、打ちきっちまうんだ。──それやそうと、君も何だぜ、そんな心にもない喧嘩沙汰は、もう止すんだなあ。そんな隙があったら、それこそ君の言いぐさじゃないが、✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕(※センズリでもこいて)、おとなしく寢るんだなあ。」と云うと、
「よし、よし。精精そうしようよ。どうでつまらないことだからなあ。」と、石崎は何だかこう少し曖昧なもの云いをして、下へおりてきた。それから、女中に云いつけて、蛇の目傘を出してくれた。
「君もちとやってこないか。」
別れぎわに私がこう云うと、
「ああ、行くよ。大事にしたまえ。」と云って、石崎は私を送りだしてくれた。