血の呻き 下篇(2)
四〇
彼等が行った時、酒場では恐ろしい混乱の中に何か大声で喚き立てて、泥酔者等が争っていた。二人は、ずっと長い路を然うして歩いて来た通りに、黙りこくって、悩ましげにその扉口に立っていた。
「何だ。豚ども……。金持が皆泥棒だと言ったら、どこが悪いてんだ。じゃあ貴様等は、金持ちは神様だとでも言うのか……」
その声が、きれぎれに叫んだ。誰かが、その壁の隅々に立って叫んでいる男に、カップを投げつけた。空瓶が飛んで行って、壁にあたって砕けた。悪罵と喚声が、暴風のようにその男を襲って四五人の男が彼に摑みかかろうとした。
その男は、ひきつったような歪んだ笑を泛べて、両手を高くさしあげた。
「犬ども……。吠えあがれ。嚙みつけ……。貴様等は、自分の……」
その男は、嗄れた喉一杯の声で叫び立てた。
「いけない……」
どこからか、突然現れて来た磨師が、叫びながら、その間へ飛び込んで行った。
「何だって、そんな事をするんだ。手前等は……、これは、石じゃねえぞ。この人は……。焼酎の瓶ていものは、道路の石に叩きつけるものなんだ」
彼は、その石と人間とを誤った連中を、その男から押退けた。
焼酎瓶で頭を割られかかった男は、あの編輯長の山口だった。
「やあ、貴方は……。やあ……」
彼は、磨師に何か言いかけたが、そこに立っている明三を見つけて叫ぶような声で言った。
明三は、走り寄って彼の手を摑んだ。彼は、痛い程も明三の手を握って、喚くように言った。
「やあ、藤田さん。あなたは……。ああ、その、そ、……」
彼は、何か吃りながら、涙を流して呻った。
「あなたは、その……。僕は、今此奴等に、この犬共に、」
「何だと……」
誰かが、その連中の中から叫び出したが、まるで木片かなぞのように磨師に跳ね飛された。
「労力の掠奪者の事を説明してやったんです。所が、所がこの豚共は、自分の味方の手に嚙みつこうとする。……時に貴方は、あの地獄で今まで、その……と暮して、来たんですね。その、ふうむ。此奴等には、その話よりも、一枚の銅貨の方が、有りがたいと言うんです。それよりも、その金持が……」
「然うよ。金持は、神様だって買う事が、出来るんだ」
暗い壁の隅この方で、誰かが怯々した声で言った。
「ふうむ、豚に、真珠を投げ与うるは……ってことがあったっけ」
山口は、独言のように、愁わしげに言った。
「それあ、ね、議論は食われませんから」
医師が、冷笑を顔に泛べて言った。
「ふうむ、……」
山口は、椅子へ頽れるように坐りながら、医師に喰ってかかった。
「議論は、喰われない。と、言うんですね……。貴方は」
彼は、眼を光らして、自分の右の手を高くさしあげた。医師は、咳入りながら、呻くような息を吐いて彼を見ていた。
「僕は、貴方のような紳士でないから、喰われないような、議論は……。その……」
「紳士……。ふ、ふ」
医師は、不気味な冷笑に顔を歪めた。
「私は、その喰われなくなった人間の食物が、どこにあるかってことを言ってたんですよ。つまり、盗まれたものを、取り返せと。解りましたか。掠奪者に、自分が呻きながら手伝いして、自分の所有を脊負せてやる事が、要るものかと……」
彼は、急に言葉をきって、また涙を流して、振りまわしていた自分の拳で眼を拭った。
「ああ、然し惨めな人々だ。あの人等は、そんな理由さえ理解ない程も、饑と疲労との桎梏に挫がれてしまっている」
彼は、自分の顔を両手で掩うて食卓の上へ打俯した。
「ハ、ハ、……、早く、自分の足の肉までもやってしまって、自分は石塊ででも頭を叩き割って死んでしまった方がいい。何を、自分で働いて、喰って力んでいるものがあるんです。こんな裟婆に……」
医師は、くどくどと泣くように言った。然し山口は些しも、彼の語を聞いていなかった。
「汝等。衣を売りても、剣を買うべしってえ時なんだ。今は……。若し、売る衣がないってんなら、石でも拾って殴りかかるがいい」
彼は、空虚な居酒屋の、汚れた壁に向って叫んでいた。然し、そこには、誰もいなかった。彼等は皆、何時の間にか出て行ってしまって、そこには彼の相手の誰も残っていなかった。彼は、舌縺れしながら、烈しく壁に頭をぶっつけて、その長い板椅子の上へ仰向に倒れてしまった。
「それは、それは、然うさ……」
磨師は、独言のように言って、溜息を吐いて、そこへ坐った。山口は、何か譫言のように舌縺れしながら呶鳴っていたが、遂に床の上に頭を落して、呻りながら眠ってしまった。
三人は、そこに坐って別々な心でこの男を見て黙り込んだまままずそうに酒を啜りはじめた。
「…………」
医師は、黙って苦い毒薬でも呑むように顔を歪めて、酒を啜っていたが、何か深い物思いを断ちきったように急にカップを置いて、深い息を吐いて言い出した。
「六塵悪まざれば、置て正覚に同じ(※)、とかって貴方が話した事がありましたね」
明三は黙って、猜疑深そうにその人の眼に見入った。
老医師は、何か深い陰謀を企してでもいる人のように不気味な眼をして何かに慴えたように怯々と周囲を見まわしては、きれぎれに譫言のようにそんな事を言った。
何か重大な事でもあるように、ひそひそ声で……。
そして、長い間を経てから、また空虚な声で言い出した。
「あなたは、その……死刑に立会った事があるそうですね」
「ええ」
明三はまた用心深く、彼をじろじろ見た。
「どうでしたか」
「いや、大変愉快でした。ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、……」
突然明三は発狂でもしたように笑い出した。
その、響きのない嗄れた笑い声は、宛然咽び泣いているようだった。
「あなたは、……いや、……然し、そんな人間じゃない。……そんな……」
老医師は、顔をあげて、じっと彼に見入りながら苦しげに言った。
「じゃあ、どんな人間なんです」
明三な意地悪い冷笑いをしながら、言った。老医師は遂に両手で頭を抱えて低く跼まり込んでしまった。
磨師は、彼等から顔を反けて、もう薄暗くなった壁の方を見て何か呻っていたが、遂に大声で奇妙な朝鮮人の唄をうたい出した。それは、沈んだ寂しい歌なのだが、彼の声はひどく嗄れて、きれぎれで、彼は唯吼えるように怒鳴ったのだった。
「止めてくれ。止めてくれ。何だってそんなに、呶鳴るんだ」
医師は、哀願するように言った。磨師は、洋服の衣嚢に両手をつき込んで、立上って顰面をして出て行った。
二人は、遂に顔を見合してまた苦しげに顔を反けた。そして、恐ろしく長い間、息つまるような苦悩の中に、黙り込んでいたのだった。
医師は、もうすっかり酔ってしまって、嚔をしながら、ふらふらと立上った。二人は無言のまま酒場を出た。明三は、医師の肩を抱いて、固くその手を摑んで、宿へ帰って来た。