血の呻き　下篇（3）

　　　　　　　　　四一

　室へやの前まで来ると、医師は急に立止った。そして、明めい三ぞうの手を離して、彼から二足ばかり走った。
「さよなら……」
「何故なぜ……。貴方あなたは、何所どこへ行くんです」
　明三は、慴おびえたように聞いた。
「静かに……。お寝やすみなさい」
　医師は、力ない声でそれだけ言って、暗い戸外へ出て行った。明三も、彼について歩き出そうとした時、室へやの中で尖った雪子の声がした。
「何所どこへ、行くの……」
　明三は、叱られたもののように俯うなだれて、彼女の側へ帰って行った。雪子は、あの時のままの形で、両手で顔を掩おおうていた。
　明三はそこへ坐って心配そうに言った。
「老医師あのひとが、どこかへ行ってしまったから……」
「あの人は、貴方あなたに何なの……」
「…………」
　雪子は、顔から手を離して光る眼で、彼を見つめた。
「ね、……」
　明三は、それには答えないで衣嚢ポケットから、ウヰスキーの小壜を出した。
「あら、お酒」
　雪子は、もう恐ろしい長い間それを待ってでもいたように、手をさし延べた。そして、何もかも忘れてしまったように、その壜を撫でてみながら独言をした。
「ああ、いい色だこと。ね、これで、頭が痺れてしまうんだろうか」
「飲んじゃいけなくて……？」
　明三は、彼女の頭を自分の膝の上に抱えあげて、栓をとって、唇ヘ口をあてた。雪子は、二口ばかり啜ると口を離して、眩暈めまいでも感ずるように、眼を閉つぶっていた。
　そして、長い間を経てから、熱い息をついて、炎のような眼を瞠ひらいた。
「おお、毒薬のようだ。苦い炎のように胸にしみる」
　彼女は、独言を言いながら、凝然じっと彼の眼に見入っていたが、苦しげに言い出した。
「私、このまま死んで行き度たい。これで……」
「ハ、ハ……。そうね。酒に酔って死ねるものなら……」
　明三は、空虚な声で笑って、呟いた。
　雪子は、彼の膝に額を伏せて燃えるような息を吐いていたが、そのまま眠ね入いってしまった。
　日が暮れてから、どこかから、菊子は帰って来た。彼女は、寝ている雪子を見ると、寂しい微笑をして、忍足に明三の側へ歩いて来た。明三はウヰスキーの瓶を彼女に振って見せて、低声で咡ささやいた。
「飲まない……？」
　少女は、暫時しばらく何か考えるように彼を見ていたが、軈やがて力ない声で言った。
「いやよ」
「何を考えてるの。酔えば暴れ出すからかい」
「まあ、私、そんな事じゃないの……。あのね、兄さん」
「何……」
「いや。……姉さんは、よく眠ってるのね。姉さんは、飲んだの……」
　少女は、彼女の顔を覗き込んで、その唇に触ってみた。そして薄笑いしながら明三の顔を見ていたが、彼の頰を指で一つつついて・・・・、逃げ出した。
「何所どこへ行くの……」
　菊子は黙って何か、自分だけで微笑しながら、隣りの室へやへ走って行った。
　次の朝、明三がやっと重苦しい眠りから疲れた頭で眼覚めた時、そっと忍び足に菊子が這は入いって来た。
「手紙が来たのよ」
　明三は、それを開いてみた。それは、彼が二ヶ月も前にＴ新聞に「浮浪の子」という短篇を送ってあったその原稿料が、二十圓えん、証書送達で届いたのだった。
「兄さんは、何時いつ起きたの」
「菊ちゃんは……」
「私も、今よ」
「…………」
「兄さんの所へ、あの手紙が届いて……？」
「どの……」
「ほうら二人で書いたの」
「ええ……」
「何時いつ……」
「四五日前に」
「まあ、あれは、一月も前に出したのよ」
「地獄まで来るんだもの、長くかかるさ……」
　明三は、起上って薄笑いした。
「きくちゃんの、父とうさんは……」
「此所ここで、寝ているの」
「少女は、自分が寝ていた室へやを指した。
「何故なぜ」
「だってね。姉さんがそう言ったのよ。どうぞ、私の軀からだの上から、貴方あなたの手を退ひいて下さい……って」
「雪さんが……。何故なぜそんな事を言ったの……」
　少女は、困惑したような顔をした。
「私、解らないけど、きっと姉さんは、病態ぐあいがひどく悪かったからよ」
「お父さんは、腹を立てて、行ってしまったの」
「然そうじゃないわ……。泣いて彼所あそこへ、行って了しまったの。でも毎日姉さんの所へ来て、坐ってるのよ」
　少女は、悲しげに言った。
「でも、よく私があすこへ行った事が、解ったね」
　明三は、暗い顔をして言った。
「それは、私周旋屋・・・から探り出したのよ。ほら、寺の小お母ばさんもあすこへ行ってるって。事も……」
「きくちゃんが……？」
「然そうよ、私よ。悪くって……」
「…………」
　少女は、首をかしげて、笑いながら言った。
「だって何もかも、姉さんが探して来いって言ったんだもの……。兄さんは、昨夜……」
　少女は、何か言い出したが急に口を噤んで、黙ってしまった。
「なあに……？」
「まあ、私どうしよう……」
　少女は、両手で赧あからめた顔を掩おおうてしまった。
「どうしたの。菊ちゃんは」
「言われないこと」
「何故なぜ……。言って御覧」
「だって……」
「いいよ」
「あの……。姉さんと……」
「姉さんと……」
「寝たの……」
「何故なぜ、そんな事を、訊きくの」
「…………」
　明三は、そっと顔をあげないでいる少女の首をつついた。
「あのね……。姉さんが、言ってたのよ」
「何て……」
「兄さんに抱かれて、寝たいって……」
「…………」
　明三は、掌に、硝子ガラスの破片でも刺さされたような顔をして、黙り込んだ。
「怒らないで……。ね、兄さん。私、悪いのよ」
　少女は、彼の手に取とり縋すがった。
「然そうじゃないよ。菊ちゃん。僕は……」
　その時、雪子は、何かに慴おびえたように眼を覚した。菊子は、立って室へやを走り出た。