見出し画像

第10節

 北村透谷のことも、ここ等で少しく言わなければならなかった。私はかれにもずっと前から注意していた。彗星的に現れて、そして彗星的に去ったかれ、かれは、作家としては別に大したものは残していなかったが、また作家としてはそれほど大きいとは思わないが、とにかく、一味の真面目さと真剣さとを当時の文壇に与えたことは事実であった。
 透谷の蓬莱曲、それと略々同時に高安月郊の『犠牲』というのが多少の評判になったことを私は覚えている。それは単行本で、プレインな表装で、自費出版か何かで世に出たものであったが、当時にあっては、バタ臭いものとして読書社会からぢき葬り去られた。透谷のものも、それに近いものとして余り多くの注意を払われなかった。
 透谷は国民派の作家達に近かったが、しかしそれとはまた違っているところがあった。議論などはことに旨く、堂々としていた。国民派の山路愛山と「人生に渉るとは何の故ぞ」ということを論じたが、たしかに、そこでは、かれの方が一枚役者が上であった。新しいものの言い方をしていた。
 しばらくしてかれの小説が国民之友の春期付録に出た。
 私もそれを第一に読んで見たひとりであった。それは『宿魂鏡』と呼ばれたものだった。無論大したものではなかった。硯友社あたりでは、ほとんどそれを問題にしていなかった。『ああいふ風に西洋かぶれになるから駄目だ! ちっとも人間が書けていはしない! それに、何うだ? あの文章の拙さは? 丸で論文か何か書く気で小説を書いている!」こう言う風に誰も彼も言った。技巧の拙なさと言う意味では、現に私もそう思っていた。
 しかし拙いと言っても、何等かの努力と、何等かの暗示と、何等かの新しさを私はそこに認めないわけには行かなかった。少くともそこには、ああでもない、こうでもないという若い作家の苦悶があらわれていた。否、これから明治文学の出て行こうとする道を示したというような若い作家の矜持があらわれていた。
 しかし透谷の持った教養は、そう大したものではなかった。かれはあらゆるものをイギリスまたはアメリカから得た。従ってエマソン(※アメリカの思想家、哲学者)などが主としてその哲学の基礎を成していた。大陸文学の影響は何処にも認められなかった。
 それから比べると、前に言った『犠牲』などの方が一層新しさを持っていたように私には思われた。
 しかし、何を措いても、こういうことだけは言われた。透谷にしろ、月郊にしろ、何うかして新しい文学を打建てたい、今までのようなものでないものを打ち建てたい………。たとえ、それは失敗に終っても、そういう風に微かな芽のようなものでも出して置きさえすれば、あとからつづくものがある。きっとある。こういう風に意気込んでいた形が面白い。その後、私は『透谷全集』を手にした。そしてそのかれの残した日記を見た。私はいろいろな感に打たれずにいられなかった。
 その日記に書いてあるさまざまな着想、計画、暗示、それを見ただけでも、その文壇の渾沌時代に生れていかにかれが苦しんだかを知ることができた。またいかに懊悩憂悶を重ねたかを知ることができた。またいかにかれが奇思縦横な若い詩人であるかを知ることができた。またそうした空想に富み、発想に富み、計画に富んだかれが、いかにその時代の文壇に不釣合であり、不かっこうであったかを知ることができた。尠くとも十年後であったなら、かれも必ず文壇に認められたであろう。あのサンボリカルな奇想を世にあらわすことができたであろう。惜しい才であったと言わなければならなかった。
 それから宮崎湖処子という作家があった。これは国民派のひとりで『国民之友』や『国民新聞』によって、八面楼主人の名で、後には批評の筆を揮ったりしたが、この人も透谷と懇意で、よくそのことを私に話した。かれは言った。「だって、あの男は、とても現世の才ではないよ。現世で容れらるのには、もう少し濁っていなくってはね………。あんまり奇麗すぎるからね。たとえて見れば、金かプラチナのようなもんだからね。銅や鉄とは一所にはいられないよ」
「それにしても、鷗外や二葉亭なんかは、透谷に対しては、何う思ったもんだろうね」
 ある時、Kは私に言った。
「さ、やはり、あまり面白いとは思わなかったらしいね………。何でもわる口を言っていたようだったね?」
「しかし、そうした芽だけでも認めそうなものだがな──」
「いや──あとから考えれば、そういう風に思われるけれど、鷗外だって、二葉亭だって、その当時にあっては、そうはっきり文壇の前途を見ていたというわけでもないんだからね。やはり、あの人達だって、硯友社の創作をわるくは思っていなかったんだからね」
「そうかね」
「それに、透谷は二葉亭や鷗外とは、丸で教養が違っているからね。一人はロシア文学、一人は大陸文学だからね。それに引かえて、透谷はクリスチヤンの方面から来たイギリス──むしろアメリカ風な教養だからね?」
「同じ新派でも、派が違っているわけだね?」
「そうそう………」
「文学界の連中がその影響を受けているのかね?」
「さ、それもちょっと考えもんだね。島崎君は透谷の影響を受けたように言っているけれども、それは態度などのことで、内容は丸で違っているようだね?」
「他には──」
「外にも、文学界の連中には、誰も透谷の脈を引いているというものもないようだね?」
「馬場君は?」
「あの人は何方かと言えば、大陸文学のチヤキチヤキだったからね。新しい方へ、新しい方へと行った方だよ。エマソンの哲学なんか持ってやしないよ」
「平田(※禿木)君は?」
「あの人や戸川(※秋骨)君は、今では英文学の権威だから、まア血統がつづいているというかも知れないけども、透谷とは違うようだよ。内部においては、別に透谷の感化を受けてはいないようだね?」
 私はこう言ったが、「しかし、真面目な態度とか若い新しい態度というようなところは、皆な受け継いだといえば受継いだわけだらうね? とにかく、北村透谷は明治の文壇では忘れることのできない人だね。たしかに本当の芽を蒔いたもののひとりだね?」