第三章 石崎
石崎のところへきてみると、案じるよりは生みやすいと云う譬どおり、丁度彼は、今外から歸ったばかりだと云うところだった。私が彼の書斎になっている、二階の六疊間へ通っていくと、石崎は陶器の丸火鉢に片手を翳しながら、片手に敷島(※タバコの銘柄)を持ってぼんやりしていた。
「どうだい。變ったこともないか。」
私は石崎の勸めてくれる座蒲團の上に胡床をかくと、例に依って、煩っている左脚を右へ持ってきて、膝關節から足首のところまでひと擦りさすりながら、こう云って相手の方を見た。すると石崎は、
「ああ。」と無愛想な調子で云って、彼もまた私の顏をみた。
「どうしたんだい。冷めてい顏をしてるじゃないか。──下痢でもしてるんじゃないか。」
私はこう云いながら見てみると、彼は茶地へ赤い縞の入った意氣なセル地を着ていたが、それが下に着ている、薄鼠の襦袢の襟のあたりを、如何にも美しく見せていた。石崎は何時も口癖のように、「俺が醫者掛かりをするのは、黴毒か淋病になった時だけさ。」と云ってるから、それを通して想像される彼の體格は、牛か豚のように肥滿していて、見るからに憎く憎くしい者のように思われるが、事實はと云えば丁度それと反對だ。そして、石崎の容貌は、何方かと云えば瓜核顏の方だ。少くとも圓顏ではない。彼が一等の缺點は鼻梁のやや低いことで、細いながらも其の眼には、遺憾なく彼の特色を讀むことが出來る。それが彼の專攻している法律書や、つれづれの餘りに讀む小說類の入っている楢材で造った大型の本箱、それに少し小型ではあるが、紫檀の机などを背景にして坐しているのを目にすると、私は妙に寂しくなってきた。今し方、神樂坂を通ってくる間に思ってみた考えが、また此處へきて蘇ってきた。私は自分の不健康さと、自分の貧しさとを思うと、それがやがて石崎に對する羨望の情に變ってきた。そして、自然に目の中が熱くなってくるのを覺えた。
「ううん。そうじゃないよ。今朝から少し頭が痛いんだ。」
石崎は此の時こう云って、ちょっと額へ持って行った右手でもって、口のあたりを二三度ばかり上下させながら、
「昨夜はやけに呷ったもんだから、天罰覿面と云うやつでもって、すっかり祟ってきやがったんだ。」
云いおわると彼はまた、額へ右手を持っていって、押えてみた。
「何處へ行ったんだい。昨夜はまた。」
こう私が聞くと、石崎はこともなげに、
「なあに。」と云うから、
「例のところか。──『折ます』先生に逢ってきたのかい。」と云ったものだ。
「まあ、そうだ。」
石崎は氣のなさそうな返事をして、敷島の灰を落した。
私は石崎が燒け酒(※自棄酒)を呷ったと云うのを聞くと、直ぐと「折ます先生」を連想した。──「折ます先生」と云うのは、神樂坂の藝妓なのだ。彼は此の春から其の藝妓と馴染んで、近頃では隨分深い仲だぜとばかりにのろけているのだ。昨夜は屹度其の藝妓と逢って、何か氣に障ったことがあったところから、また持病を起したのだろう。それから、「折ます先生」と云うのは、其の藝妓が曾て、石崎のところへ寄越した呼出し狀に、「私待って折ますわ。」とあったところから、私達はそれ以來、小夏と云う其の藝妓を、「折ります先生」と云う名に變えてしまったのだ。
「どうしたんだい。喧嘩かい。」
「そうよ。餘り甞めたことをしやがるから、蹴飛ばしてやったんだ、後は酒だ。どうして寢たか。どうして起きたか。今朝までまるで知らないんだ。」
石崎はそれを口にしながら、少し眼色を變えてきた。恐らくは彼は、また昨夜のことを思いだして、餘憤に堪えられなくなったのだろう。正直に云うと私は、特に其の夜は、こんな話にはなんらの興味も持てなかった。反對に私は、そう云った風に待合い入りをして善かれ惡しかれ一個の藝妓を相手に、喧嘩口論をしてくることの出來る石崎の身分のほどが羨しくなった。だから、出來るものならこんな話は、もう此處いらで打ちきりたいと思ったが、しかし、行きがかり上そうもならなかった。其處で仕方なく、
「どうしたんだい。相手に好い野郎でも出來たとでも云うのかい。」と云って、私はのみ差しのバット(※ゴールデンバット。タバコの銘柄)を深く吸ってみた。
「そうじゃないんだ。一層そうなら、此方にも覺悟があろうと云うもんだが、そんな氣の利いたんじゃないんだ。なあに、ことは詰らないことなんだ。」
「じゃ、掛けても掛けてもこないでいて、漸くやってくると、鬱ぎこんでいて、一向に口も利かない。そう云った譯なのかい……」
石崎は、輕く首を振って默っていた。
「じゃどうしたんだい。君が昨夜泊ろうとすると、『お歸りなさいよ。お宅の首尾もあってよ。』とでも云ったので、怒っちゃったのかい。」
私はこう云いながら、ふと前夜の光景を想像した時には、溜らなく嫉妬の情に驅られてきた。其の上、性の衝動さえも感じてきた。
「ううん。そうじゃないんだ。昨夜僕は、半襟を買って行ってやったんだ。──半襟を欲しい欲しいと云うから、じゃ買ったら好いだろうと云うと、『あなた、買ってくれない』と云やがるんだ。好かろう。そいじゃ此の次買ってきてやろうと云って約束したそれを、買って行ってやったんだ……」と石崎が云うのだ。私は彼の半生を思いみて、つい可笑しくなったところから、聲に出さずに笑ってしまったのだ。すると石崎はそれを見咎めて、
「何が可笑しいんだい。半襟を買って行ってやったから、買って行ってやったと云ってるんだい。それが可笑しいのか。」と云って、敷島を灰に突きさしながら、少し調子を尖らかしてきた。
「別に笑やしないじゃないか。──それからどうしたんだい。」
私はあわてて、苦笑を打ちけして、態と其の言葉に力を入れてみせた。
「笑ったじゃないか。今。」
石崎は、もう一度それを繰返したが、一方には、乘かかった船だと云う氣持ちがあったせいだろう。
「ちったあ、神妙にしてるんだなあ。」とこれは獨語(※ひとりごと)のように云いながら、間もなく其の後をつづけた。
「で、僕は半襟を買って行ってやったんだ。すると折ますめ、それを取ってみて、地色が氣に入るの入らないのと、さんざん御託を並べた揚句に、『なんだか此の模様は、安っぽいわね。」と云やがるんだ。だがそれも好いんだ。──自分がそう感ずるんだから仕方がない。ところへ丁度入ってきた其處の女中が、『まあ、素的だこと。』とかなんとか云いながら、それを手に取りあげて、自分の胸のところへ當ててみてると、折ますのやつめ、『姐さん、あなた入らない。』とこう云やがるんだ。そう云われれば誰だって、『私入らないわ。』と云うやつがあるもんか。型の如く女中のやつは、『私欲しいわ。』と云ったもんだ。すると折ますめ、『じゃおかけなさいましな。不斷でも。安物ですが。』と云って、云わばまあ、まだ俺の物を其の女中にくれてやるんだ。俺たる者、怒らずに居れないじゃないか。俺は、『そうどうも濟みませんわね、頂いて好いこと。』と云って、かたみに折ますと俺とを見ながら、それを両手で持ちそえて、押しいただくのを見ると同時に、俺は折ますのやつを蹴飛ばしてやったんだ。折ますのやつめ、なんとか云ったっけ、『何するのよ。甚いわ。』とかなんとか云ったっけ。それが餘計と俺の氣を煽ってきたから、厭と云うほど蹴って蹴って、蹴飛ばしてやったんだ。それから後は酒だ。今度は酒を杯盤でもって、ぐいぐい開けたんだ。それから後は、今朝まで前後不覺なんだ。呼びおこされて起きてみると、前の晩暴れた部屋に、俺は寢てると云う始末なんだ。目が覺めると、また酒にしようと云ったんだが、待合いのやつらは、なんだかんだと云って、一向に取りあわないんだ。そして、『小夏姐さんも小夏姐さんだけれど、いいさんもいいさんですわ。若し小夏姐さんに傷でもついたら、それこそ大變じゃありませんか。』てなことを云やがるんだ。小癪に觸るから俺は、其處の嚊も女中も、みんな蹴殺してやろうかと思ったんだが、そうなるともう、白面の法学生位情けない者はないや。直ぐ頭へ浮んでくるのは、刑法と云うやつだからいけねえや。口惜しかったが俺は、其のまま口も利かずに飛びだしてきたんだ。」
「そいつあ騒ぎだなあ。だが君も利口じゃないなあ。」
私は少し莫迦莫迦しくなったので、つい云うことも冷やかだった。私はもう此處へくると、其の夜の目的がふいになったことを覺った。よし、私が話の隙をみて、切りだしたところで、石崎がそれを快諾してくれる筈のないことは、彼の性格、彼の平生から見て、微塵疑う餘地のないことだ。それと私は、喧嘩の起りと云うのが、彼が女に買って持って行った半襟からだと知ると、もうそう云うことを切りだす氣力はなくなってしまった。ただ私には、寂しい味氣ない氣持ちばかりが殘ってきた。一つはそれも手傳って、私をしてそう云った言葉を吐かしたのかも知れない。