第十章 岡田
其の頃岡田は、追分にいたのだ。追分は、高等學校の寄宿舎近くの、松風館と云う下宿屋にいたのだ。
私は夜更けではあり、それに雨が降っていたので、少し廻り道ではあったが、根津の大通りへ出て、それから根津の權現裏から上へあがることにしたのだ。
丁度私が、夢中になって、根津の權現裏へきた時だった。私の意識は、此處で幾分はっきり自分に返ってきた。すると私は、不意に釘づけされたようになって、其處に立ちどまってしまわなければならなかった。
──はっきり意識が自分に返ると、私は其の時、現在岡田のいる下宿のことが、はっきり自分の頭へ浮びでてきた。つまり、岡田のいる下宿と、私との關係が、今更のように自分の心に結びついていて、離れないのに氣づいたのだ。そして、しみじみと私に、岡田の死に場所が悲しまれてきた。彼さえ其の下宿へいかなければ、何も私がこんな厭な、苦しい思いをしなくとも好かったのだと思うと、幾くら同情して考えても、其の時ばかりは、岡田の仕打が恨まれてきてならなかった。
これは、それより二箇年足らずも前の出來ごとだったが、私は其の下宿屋に、九十幾圓ちょっと百圓足らずの借りを殘して出てきたのだ。そして、此のことは、岡田も能く知っていることなのだ。
そもそも私が此の下宿へ行ったと云うものは、岡田がもう私より先に、其處にいたからなのだ。私は母を失って上京した時に、云わば私は彼に誘われて、彼の紹介で其處にいることにしたのだ。そして、其の時も私は、特にこれと云う職業も持っていなかったところから、これも彼に勸められて、彼が其の頃やっていた靑年雜誌や、敎育雜誌の訪問をして、其の原稿を彼に買って貰っていたのだが、それから得る收入と云うものは、せいぜい十四五圓前後のものだった。だから、下宿料の方は、支拂ったり支拂わなかったりして、一箇年餘りいた間の滞りが、百圓足らずになったのだ。其處でいろいろと下宿の主人と交渉して、最後にそれを月賦にして返濟しようと云う條件づきでもって、私は其處を出てきたのだ。ところで彼は、私よりはずっと前に、もう其處を出ていたのだ。
で、其の下宿屋を出てくると私は、團子坂下の俥屋の二階へ移ってきたが、それからは時時ではあるが、友達と一緒に本鄕通りを歩いていると、其處で下宿の主人に出會して、目から火の出るほど、嚴しく督促されたものだ。終いには、下宿の主人が、印刷した借用證書を持って私のところへ尋ねてきて、私に金額や署名をさせた上に、捺印まで取っていったことがある。だから私には、其の下宿屋、もう一軒、其の下宿屋にいて拵えた、三十二圓と云うセルの洋服代金の滞っている神田の洋服屋とは、私には此の世に於ける鬼門だった。
ところで、其の中の下宿屋、──私の爲には、最も責任あり、義務あるだけに、それを辨濟しなければ、私は其處の閾をまたげない義理あるところへ、敢えていかねばならないのだから、一面には火をつけられたように焦燥しながらも、他の一面には、深淵に臨んだ時のように、自然と氣怯くれがして、足もひとりでに立ちすくんできたのだ。
私には其の時また、岡田の死骸とともに、細くて近視ではあるが、蛇のように光る目をして、色氣も輪廓も、丁度一個の水瓜のように見える下宿屋の主人の顏が、まざまざと見えてきた。そして、水飴でも頰張りながら、口を利くような彼の調子が耳についてきて溜らなくなった。彼は屹度私の顏を目にすると、今度岡田が成した迷惑さに對する、恨みと憤りとを一緒にして、それを私の頭上へ投げかけてくることだろう。そう思うと、私にはただ其處には、一圖に岡田の自殺を祝福してやりたい氣持ちばかりがあって、微塵彼を愛惜し、悲歎してやろうなどと云う念がなくなってきた。
「ざまあ見ろい。だから云わねえこっちゃない。僕の爲には、無間地獄みたいなところへ行くのが、そもそも間違ってるんだ。そんなところへ行きやがるから、とどのつまりがてめえでてめえの命を縮めなきゃならなくなるのよ。」と、私は今なお彼に通ずるものならこう云って彼を怒鳴りつけてやりたかった。なるほど彼は、私がこう云って喰ってかかれば、彼は彼で、屹度ことの此處に至った所以を、こと新しく說明し辯解することだろう。そうだ。そうしたら彼は屹度、
「だって君も分らないじゃないか、僕が此處へきたのは、何も自分から、好きこのんできた譯じゃないんだ。僕は君も知ってる通り、はな君と一緒に、よそを探しまわったんだ。一軒、二軒と、そうだ。都合五軒だ。當ってみたんだ。だが間取りの好いとこは宿料が高いし、そうかと云って、安いところは、それこそ穴倉みたいに、一日日のめも見れないような間ばかりなんだ。すると君は、『俺はこれから高木博士のところへ行かなきゃならないんだ。』と云って、途中から消えてなくなったじゃないか。僕は君と別れてから、獨りで東西の片町、それから森川町邊を殘らず探してみたんだが、思うようなところが見つからないんだ。其の中日は暮れかかってくる、心は急くが、仕方がないから、歸ろうと思って歩いてくる途中で思いだしたのが此處なんだ。で、きてみると、幸か不幸か知らないが丁度三階の一室が明いているんだ。ところで、其の間も本當は僕の氣に入らなかったんだが、場合が場合だけに觀念して、十日か十五日、次の宿の見つかるまでいることにしようと思って、つまり、一時凌ぎにと思って、今のところへ越しちゃったんだ。そりゃ僕だって、君が僕のいるところへき辛いことは、百も承知しているさ。だから僕は、其の翌日、君のところへ行って、殘らず其の譯を云って、あやまって置いたじゃないか。」と云うことだろう。だがしかし、私の云っているのは、そう云ことではないから、若しそうなったら私は、
「いや、そりゃ分ってる。ただ僕に分らないのは、どうしたら君は、そうまで性急に、引越さなきゃならなかったんだい。あの場合もう一日か二日ぐらい、延ばすことが出來なかったのかい。君に云わせると、『其の中に日は暮れかかってくる。氣は急ぐが。』と云う。なんのことはない。臥薪甞膽だ。一日千秋の思いでもって、不倶戴天の敵でも探す爲に、諸國遊歴する者の口にするようなことを云うが、僕にはそれが分らないんだ。どうしたら君は、そうまで性急に、それを探さなきゃならなかったんだい。僕にはそれが分らないんだ。」と云ってやりたい。すると彼はまた、探偵犬のように、フンフンと鼻で呼吸をしながら、またそれからそれと、其の云われ因緣を說明することだろう。だが、其の云われ因緣ならば、何も私は、今更彼の口から聞くには當らないのだ。と云うのは、彼の口にするところは、私が殘らず知っていることだからだ。つまりそれは、彼がふさの目から脫れたいところからきていたに過ぎないからだ。私は彼が、眞底から聲を顫わし、目を潤して、なおもこれを縷說しようとするなら、其時は私は、
「もう澤山だ。澤山だよ。」と、こう云ってやりたい。そして、私は、「それはそれで好いとして、僕が次に聞きたいのは、そう云った風に君が一瞬間をも爭って、其の女から脫れようとする、つまり飽くまで女を捨てて顧みようともしまいとする。そんな女を、君はどうしたら見つけたんだ。僕の知ってる限り君は極端なる、そうだ、敢えて極端なると云っても好いくらい君は女性尊重論者だった。君の言葉を借りて云えば、男が女を戀する時は、其の女と結婚することを、第一條件にしなきゃならない。勿論、旣に結婚を第一條件としてるんだから、結婚同棲もせずに、女と離別するようなことは、許すべからざることだと云って、力說大に努めていた君が、どうしたら今度のような事件に座したんだ。言行一致と云おうか、君の行爲は、みごと平生の君が言説を裏切って、餘すところがないじゃないか。」と云って、我れながら少しうるさいが、私は何處までも彼を追窮してやりたかった。
恐らくは彼とても、此の質問に明答することが出來なかろう。今では彼は、力說した其の理論を、根本から破壞して退けたのだから。だがしかし、彼もなかなか聞かぬ氣だったから、私が幾くら追窮しても、彼は柔順に降服しないだろう。よし岡田は、私の云うところを是認し、肯定するとしてからが、彼は其の前に、屹度ことの此處に至った理由なり、また其の經過なりを說くに相違ない。蓋しこれは、獨り彼のみに限らず、人間と云う人間が、殊に善良な人間が、本能的にそうしなければ、氣の濟まないものだから、彼一人がそれに洩れようとは思えない。
ところで、困るのは其の辯解も其の說明も、皆殘らず私が知っていることだからだ。だから、私はそうなると、もう一度追っかけて、
「いや、其のことなら、折角だが斷わろうか。いや、もう澤山だよ。それとも君が、是が非でも、一應說かなきゃ氣が濟まないと云うなら、かく申す僕が、敢えて、君に代って說いても好い。」とこう云ってやりたかった。そうしたら彼は、屹度幾くら拷問されても一向に自白しようともしない强盗殺人罪の被告が、動かしがたい證人と證據品とを突きつけられた時のような表情をすることだろう。──其の時彼は、不意に頭へかかった蜘蛛の巢でも拂いのけるように、眼を閉じ頭を振りうごかすことだろう。そして、其の面上には、臍を嚙んでもなお及ばない後悔の念にでも、攻められる時のような表れを見せることだろう。だがしかし、それもこれも仕方がない。凡べてこれ皆事實なのだから。──若し讀者諸君の中に、ただの一人でも、私の云うところを疑ぐる人があるなら、私はそれを證しする爲に、殘らずそれを此處で語っても好い。と云うのは、岡田對ふさのいきさつは、序幕から大詰まで、云わば私が皆、舞臺監督のような位置に立っていたからだ。