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第16節

 一葉の短い一生も、明治文壇では特異なこととしなければならなかった。私は幸にしてか、不幸にしてか、一葉には逢ったことはなかった。しかし、あながち縁故のないことはないのであった。私が一番始めに『都の花』に『新桜川』という作を発表した時、かの女も『うもれ木』という作を花圃女史の紹介つきで始めてそこに出していた。『都の花』の当時の編集人であった藤本藤陰を私が始めて神田の仲猿楽町に訪ねた時、藤陰氏が、「面白い女の作家が出ましたな………田辺さんからの紹介ですが、めずらしく男らしい作家です………。女とは思えないくらいしっかりした文章です」と言ったことを今でも私は覚えている。
 当時の新興文芸の芽としては、かの女は決して新しいとは言うことはできなかった。その教養も全くお嬢さん風と言って好かった。かの女はやはり歌の会に出て老人などに交わって歌を詠んだりしたものの一人であった。恐らくかの女にして、もう少しその周囲に新しいグルウプを持っていたならば、もう少し新しい方に出て来ることもできたであろうが、桃水などをその師にしたためか、それともまた、ああした古い文体に興味を持つような気分であったのか、ああした若い心をあの不自由な文体の中に埋め尽して了ったのは惜しいような気がした。
 かの女が文壇に知られたのは、明治二十七八年の頃で、『濁江』だの、「たけくらべ』だのを出してから、急にその文名は高くなって行った。何方かと言えば、『めざまし草』の大家連に持上られたため、そのため一層名高くなったという形があった。それに、あの『めざまし草』の褒め方も、何か他に原因があったように私は聞いていた。
 それに、不思議なことには、あの時代になっても、ああした雅俗折衷の文体がかなりに当時に勢力を持っていたということであった。それはまさかにあの文体が将来の文体になるとは思いもしなかったであろうけれども、露伴が書き、一葉が書き、緑雨が書き、後には、鷗外すら物好きにあの真似をして、『染ちがえ』などというのを書いたくらいであるから、ああした文体もかなりに当時に持て囃されたに相違なかった。しかし国木田独歩などは、その頃から、そうした文体の不自由なのを説き、何うしてあの若い一葉がああした文体に頼ったかと訝っていた。
 私は『濁江』ではそう感心しなかったが、『ゆく雲』あたりに行って、次第にそっちへと近寄せられて行った。あの『ゆく雲』の結末などは、今でもはっきりと覚えているくらいである。『われから』『たけくらべ』などにも感心した。
 あの一葉の日記にも書いてある福山町の雰囲気は、当時にあっても、かなり評判の高かったものであった。「何うだ、行って見ないか?」こう私は何遍も誘われた。現に、その近くの富坂にいた眉山などに誘われたことなどもあった。しかし何となく気味がわるいような気がした。此方で向うを見るということよりも向うから此方を見られるのが恐しいような気がした。私はたうとう(※)そこに足踏をしなかった。
 『めざまし草』の大家達がああして条件なしに褒めたのは、それは一面本当に作そのものがすぐれていたということもあったであろうけれども、一方、他の新進作家──たとえば鏡花とか、天外とか、宙外とか、風葉とかいうものに対して、一種の面当というような気分が醸されてあったためではなかっただろうか? 新進作家の圧迫に対する一種の防御運動のために、かれ等に大した邪魔にならない一葉をああいう風に持ち上げたのではなかっただろうか?