血の呻き 上篇(7)
七
彼は、悩ましい思いに充された、心の盃を抱いて、酒場へは入って行った。
日の落ちた、暗い地の上に、欷歔のように冷たい雨が降りしきっていた。
「やあ、来た、来た!」
入口に近い壁に靠れていた痘面の靴修繕師が叫び出した。向うの隅の方の壁の下では、五六人の彼の仲間が、何か声高に言い争っていた。明三は、そこへ引ぱって行かれた。
「さあ、今度は俺が、誰かを殺してやる。その時、お前がまた俺の首に縄をまいてくれ」
靴修繕師は、舌縺れしながら、呟いて彼にカップをさし出した。
「やあ、死刑の大将……」
磨師は、例の奇妙な礼装をして、酔ぱらった手を彼に差延べた。
「お前様がその新聞に書いた人かね」
ほんの、一碼位い(※1ヤード? 0.9144メートル)しかない軀幹の、もう七十位の鋳掛師が、食卓の傍に立上って、彼の顔を覗き込んだ。
「ふうむ、この人かい……」
恐ろしく丈の高い、佝瘻(※)の蜘蛛かなぞのような奇怪な頭をした火葬番の老人が呟いた。
「何故、そんなに、皆僕の顔を見るんです……」
明三は、腹立しげに言った。
「いや、俺等は今、その男の事で、死刑になった人間の事で、喧嘩をしてたんだ。つまり、……」
靴屋がまだ、言いきらないうちに、どこかからひどく酔ぱらった山口編輯長が出て来た。
「いや、いや、その……」
彼は、いきなり明三の肩を抱いて、その軀を揺ぶるようにした。
「あれを、僕は、全紙面を潰して、出したんです。そいつを、今此所で僕が読んでやった。話が、それです。ほら……」
彼は、ポケットから皺くちゃな新聞を出した。
「皆、締縄をかけられたように、叫び出したんです。皆。ハ、ハ、ハ、……」
彼は、然しひどく酔っていて、そのまま食卓に顔をあてて、唸り声を立てはじめた。
「然し、あれはやっぱり、あんなにして、まるで墓のような所で、呻きながら生きてるよりは、首を締められた方が、いいんだよ……」
鋳掛師は、くどくどと呟いた。
「いいや、墓穴の底でも、硝子の破片の上ででも、首を縊って殺されるより悪いって事は、ない。どうして、そんな……」
火葬番の爺は、腹立しげに叫んだ。
「だって、そいつは、人間を膾のように刻み殺したんだよ」
見すぼらしい、印袢纏をきた男が、怖々と言った。
「人を殺したからって、そいつを摑まいて首を締めるって事があるもんじゃない。人間が、人間がそんな事をされるって法が、あるもんじゃない……」
「じゃあ、その刻み殺された奴にはどんな法があるんだい。火葬番君」
靴修繕師は、叱るように言った。
「生きてた方が、いいって事は、それはそうだがね……」
然ししばらくしてから彼は、気むずかしげに言い足した。
「靴の底を、嚙りながらでも、か……。ヘ、ヘ、……」
奇妙な顔をした磨師が、冷笑った。そして、独言のように呟いた。
「火葬番の、天理の神様も、そいつを助けては下さらなかったんだな」
「観音様が、何でも助けてくれる事は、真実かい」
黙り込んで、何か考えていた鋳掛師がだしぬけに言い出した。
「そんな、話があるね」
明三は、苦しげに答えた。
「殺される時でも……」
「…………」
「一体誰がそんな事を、言い出したんだ」
靴屋は、自分の頭をかき挘りながら言った。
「釈迦がさ」
明三は新聞をよみながら煩さそうに答えた。
「何時……」
「もう、ずっと、年老ってから。妙法蓮華経、観音菩薩普門品(※)というのに書いてある」
「ふうむ。あれは、人かい。あの釈迦ていのは……」
「印度の、黒奴だよ」
「何をする人間だったんだい」
「乞食をして、ぶらついてたんだよ」
彼等は、すっかり黙り込んでしまった。暫くしてから、また靴屋が言い出した。
「喧嘩をした事があるかい」
「あるよ」
「それから」
「薪をもって追かけられた事もある」
「何か盗んだのか」
「いいや、つまらない事を言ったんだ」
「どんな事を」
「お前は、きっと仏さまになる。だから、俺は……で、地面に坐って商人を拝んだんだよ」
「へえ、殴られたかい」
「殴られたかも知れない。書いてないんだ。これも、その法華経てのにあるんだが………」
「それから……」
「追かけられながら、何遍も地面に坐って、そう怒鳴りながら、拝んだんだ」
「ふうむ、偉いのか」
「…………」
「お前は、有難いかい」
「…………」
「有難いかい……」
明三は、蹙め面をして物を言わないで、靴屋を見つめた。
「その観音様は、どこに居られますかい」
鋳掛屋は、また怖々と聞いた。
「どこにでもいるんですよ」
「汝の背中にも、どっさり居らあ」
磨師は、ふらふらと立上りながら言った。
「ちょっと、その、お経を読んでみて下され」
明三は、両手で顔を掩いながら低い声で、普門品偈(※)を諷誦した。
「……名を聞き及で身を見、心に念じて空しく過さざれば、能く諸有の苦を滅したもう。仮令、害意を興して、大火坑に推し落さるるも、……」(※)
誦経の声は、疲れた重い足をでも曳ずるように、続いた。
「それは、もう、決してそんな事があるもんじゃねえ」
と、突然に火葬番の爺が呼び出した。
「吠えるな、犬奴! 汝の頭を叩きこわすぞ!」
靴屋は、彼を叱りつけた。
「或は、悪人に逐われて、金剛山より堕ちんにも、彼の観昔の力を念ずれば、一毛をも損ずること能わ……」(※)
「やめてくれ、やめてくれ。それは皆、嘘だ……」
此時黙っていた火葬番が、また発狂したように喚き出した。
「貴様! こら、犬奴!」
然し、明三は立上ろうとした靴屋を制して、力ない声で言った。
「何故だい、爺さん」
「皆、それは嘘の事だ。O町にいた乞食婆が、流行性感冒で死んだんだ」
老爺は息詰るような声で言った。
「そいつあ、観音様に憑かれて、気狂いみたようだった。所が、その骨がなくなった」
「何の事を言ってるんだ。おめえ」
印袢纏の男は、忌々しそうに言った。
「そいつあ死んでいなかった。どうして、生きてたのか俺は知らない。棺桶の中で生きてたんだ。それに違いない。そいつは火葬竈のずっと奥の方へ行って、立って石の壁に囓りついて焼けてたんだ」
鋳掛師は、身慄いした。
「そいつは、きっと狂犬のように叫んで、歯を露出して、あの溶鉱炉の中のような、竈の烘熱た鉄の簾の上を、狂いまわったんだ。然し、どうしてそんな所で気が狂われるものか。終まで正気で、喉一杯の声で観音様を喚きながら、跪いたんだ。どうしてどうして、そこが池にならなかったんだ。いや、たった一滴の水でも、女の喉を濡してくれなかったんだ。呼吸まで燃えてしまう。肉は、だらだらと腐ったもののように焼け落ちる。そして、骨だけになるまで、死にきれないでいたんだ」
「これが、これが、観音様のお陰か……」
彼は、一言一言吃って終には涙を流しながら、人々を見まわして叫んだ。
「どうして、その時、汝の方の天理様が、助けなかった。あんまり熱くってか……」
どこかから、現れて来た磨師は彼を冷かした。
「汝、何だって神様を、悪く言うんだ」
「だって、汝の方の神様は、一度も俺に飲ませた事もねえからな」
火葬番は怒り出して、ぶつくさ呟いた。
「バテレン(※キリストの意)てのは、どうだい。おい、大将」
靴屋は、明三の肩を叩いて言った。
「あれも、黒奴か」
「大工の嬶の、私生児だ」
「そして、大工か」
「うむ、大工もした」
「乞食も、か」
「そうだ」
「酒は……」
「飲んだよ。ひどく飲んで酔っぱらって泣いていた」
「喧嘩もか」
「無論さ」
「面白いな」
「その神様の方が、有り難う御座りますか」
黙って、彼の顔を覗き込んで聞いていた、鋳掛屋が、怖々と訊ねた。
「何を、汝は言うんだ。老耄奴! 神様なんてものは、皆うそつきの山師なんだ」
磨師は、その虫に食われたような頭を、両手で搔きまわしながら吼えるように呟いた。
その叫声に、また山口は顔をあげた。そして、ひどく酔った声で言い出した。
「あなたは、すっかり読みましたか」
「ええ?」
「ほら、これも、……」
山口は、一面の二号活字を指した。
そこには、四五行の簡単な廃刊の辞が書かれていた。
「あの泥棒社長が、真青になってやって来たっけ。僕は、奴の頭を机の角へ二つ、擦りつけてやったんです。そして、さよならをして来ました」
「然し、貴方は……」
「いや、関わないで下さい。僕はここの泥濘から、去るんです」
「どこへ」
「シベリアへ。曠野へ……」
彼は、ふらふらと立上ったが、どたりと尻餅をついて、何かうたい出した。
「シベリアへ……? 曠野へ……?」
明三は、口真似のように呟いた。
山口は、食卓の上に肘をついて両手で顔を掩うて、懶げに言い出した。「然し、死刑に白痴の子があるんだが……。茂と言う……」
「茂……」
明三は、釘で心臓を剌されでもしたように叫び出した。
「茂。あれが、その児ですか。私に勲章をくれたのが」
「勲章……。ハ、ハ、ハ……。貴方は……。ハ、ハ、ハ……勲章をもらったんですね」
明三は、怖えたような青ざめた顔をして黙り込んでいた。
「ふむ、貴方は、ばかに物思わしげになりましたね。また、病、病……」
明三は、彼を見て何か言おうとしてまたすぐ黙り込んだ。
「貴方は、どうかしたんですか。そ、それとも……」
山口は、再び立上ろうとして、どたりと床の上に頽れ込んだ。そして何か大声で喚き出した。明三は、悩ましげにその上に跼まり込んで覗いたが、彼はもう鼾をかいていた。明三は、深く頭を垂れてしまった。
皆、長い奇怪な沈黙の中に顔を垂れてしまった。長い時を経てから、明三は、苦しげに息をついて顔をあげた。
その時、彼はふと、向うの隅の方の壁の下に、椅子に靠れて彼に見入っている妙な女を見出した。その女が、何時から、そこには入って来ていたのか、誰も知らなかった。
「何だ、お前は、何だってそんな所にいるんだ。どうして此所へ来ないんだ」
その時やっと気がついた靴修繕師は、薄笑いしながら言葉をかけた。皆、彼女の方を見た。女は、黙って彼等の方へやって来て、明三と磨師との間へ、頽れるように坐ってそっと明三の指を握った。彼女はひどく酔って、ふらふらしていた。
そして、荒々しい呼吸づかいをして炎のように燃える眼で、明三に見入った。
「何だ、そんなに酔ぱらって」
靴修繕師は、その女の肩に触りながら言った。彼女は、気難かしく黙り込んで、明三から眼を離さなかった。悩ましい、向日葵(※ひまわりの別名)のような女だ。日盛りの下のその花のような、気味悪い程の蠱惑的な、美しい顔をした、もう三十位の女だった。その女は、とうとう明三の胸の中に靠れかかった。
「この女は、ひどく酔ってるんですね」
明三は、悩ましげに言って、彼女から離れて、立上った。女は、わざと床の上へ頽れ落ちて声を立てた。
「ああ……」
そして、床の上に額をつけて、かがまり込んでしまった。靴屋は、彼女を自分の腕の中に、抱き起した。
「ハ、ハ、……靴[#丸傍点]なおし[#丸傍点終わり]さん、あの人は、私を、私を地面へ投出したよ……」
女は、明三を見ながら彼の腕の中で、溜息をついた。靴屋は、彼女の頭に手を捲いて、その首に接吻した。
「ふん。じゃあ、お前さんが、引取るのかい。ちょっと此処で、せり売しないかよ。もう些し、値をつける人は、いないのかい」
彼女は、靴屋の肩に摑まりながら、譫言のように言って、人々を見まわした。
然し、靴屋は、彼女に何か咡きながら、自分の腕の中に抱えて連れ出した。
「へ、へ、ヘ……」
印袢纏の男は指を鳴らしながら、妙な声を立てて、笑った。
女は、靴屋の腕に抱かれて、扉の前を通る時、再びあの気味悪いような眼で、そこに立っている明三を見つめた。その髪は、頽れて、露出された胸の上に乱れかかっていた。靴修繕師は、彼に、不可解な笑い顔を見せて彼女を曳ずりながら暗がりへ消えた。
「ふん、靴の底叩き奴!」
火葬番は、泣くような声で笑った。明三は、彼に訊ねた。
「彼は、何ですか」
「女だよ。鈴木時子……」
「つまり、何をする」
「自分を商売する奴さ! ヘ、へ、」
「靴屋は、もう、彼女に肉を挘り食われているんだ」
磨師は、沈んだ顔をして、呟いた。
鋳掛師は、両手で顔を掩うて舌縺れしながら、何か口小言をでも言ってるような奇妙な唄を、うたい出した。
「して見ると、有難いと、いうことは、どこにもなしか……」
老耄れた鋳掛師は、唄をやめて泣き出しそうな声で、独言を言った。そして、かがまり込んでくどくどと呟いて、咳をしながら出て行ってしまった。
「何もかも、女と、金だ。情けないものだ。困ったものだ……」
火葬番は、立上って呟いた。
「おめえの国じゃ、何もかも、十柱の神様と、死人ばかりかい。有難い話だね」
磨師は、彼の背後から、毒々しく言った。印袢纏の、浮浪漢は黙って、嚔をして行ってしまった。火葬番は、何か言いたそうに、明三を見返ったが、急に俯れて黙って出て行った。
「あれは、終いには、どんな事が書いてあるんだ。あのお終いは」
磨師は、がらんとしたそこらを見まわしてから、彼に言った。鈍黄色い電灯の灯光は暗く淀んで来た。
灰色な黎明の力ない光りが、埃だらけの居酒屋の硝子扉にさした。明三は、寂しそうに四辺をみまわして、ものうげに言った。
「観世音は浄聖にして(※)、苦悩死厄に於て、能く為に依恬(※いこ?)と作りたもう、一切の功徳を具し、慈眼もて衆生を視そなわし、福聚の海無量なり、是故に頂礼し上るべし。と、功能を書いてあるんだ。……が、何故だい」
「いや、唯ちょっと聞いてみたんだ。然し、……ふうむ……」
磨師は、物思わしげに首を垂れた。二人は、長い沈黙の底に、相互の顔を見合っていた。遂に、明三は、立上った。
「行こう」
「お前は、何も、かも読んだんだな」
「読んだよ」
「そして、解ったのか」
「解ったよ。ちっともそんなものは、読む必要がなかったって事が……」
「俺も、こんなになってから、気がついたんだ」
「何も、生れて来るがもなあねえんだ。白痴奴!」
磨師は、情けなさそうに言った。
「じゃあ、行こう」
「いや、俺を、一人で置いてくれ……」
明三は、急に気難かしげに、言い出した。
「そうかい。じゃあ行くよ」
彼は、立って出て行った。明三は、カップに残った酒に物思わしげに見入った。然し、彼も、三分と経たないうちにそこを出た。そして、あてもなく、もう夜明近い、眠り疲れている陋巷を、ふらふらと歩いた。
不意に、彼の眼の前に、あの燃え爛れたような、恐ろしい向日葵の女の眼が、輝いたりした。白日は、燃える陽に跪いて唇をまかせ、夜の暗みには、闇の腕に軀を投げて委ねる、怪しい生活の夜日(※昼夜)は、悩ましい悪霊かなぞのように、彼の頭の暗がりに蝕って、憑いていたのだった。彼は、嘆息をついて、愁わしげにあたりをみまわした。
遂に、夜は明けはなれた。
彼は、酔のために、しくしくと痛む頭を、胸の上に垂れて、泣き度いような気持でふらふらと歩きつづけた。