第九章 訃報
私がようやく宿へ辿りついて、破れ蛇の目を窄めると、其處の戶足の惡い硝子戶を、半ばやけに押し開け叩きしめて、土間へ立った時には、それでも幽ながら、一種の安意さを覺えた。と同時に、雨のしぶきに霑んでいる單衣の裾のあたりが氣になった。で、傘を其處へ立てかけて、突っかけの破れかかっているスリッパを突っかけて、板敷へあがると、其處の左手の茶の間から、
「お歸りなさいまし。」と云って、珍らしく宿のおかみが迎えてくれた。ところで、氣も心も、石のように堅く結ぼれている私は、それには答えもせずに、其處を通りぬけようとすると、障子の間から、しどけない寢卷着姿をみせていたおかみが、
「さっき、岡田さんて方が、お見えになりましたが……」と云うのだ。
「ああ、そう。」
私は、それを深く意にもとめずに、こう生返事をして、自分の部屋の方へ行きかけると、
「そして、お歸りになったら、これをおあげして頂きたいって、これを置いていらっしゃいました。」と云って、一葉の白紙を差出したから、私は振り返って、それを受取ると、おかみは追っかけて、
「外にお連れがお二人いらっしゃいました。」と云って、ちょっと息をついて、「お一人はお髯をはやした方で、今お一人は、肥った方でした。」と、問わず語りをして聞かしてくれた。私はそれを聞くと、其の連れと云うのは誰だろうと思った。
「肥った男。」
こう云いながら私は、其處の五燭光(※五ワット電球)の電氣の蔭で、透しながら其の書置きに目を注いだ。それには、
「德次郎が死亡致し候。直ぐに、御出で下され度候。」と鉛筆で走りがきした横へ、「岡田作太郎。」としてあった。私がそれを讀みおわると、丁度おかみは、
「なんとかおっしゃったようでしたが……」と云うそれが切れるところだった。私は、
「幾時頃きたんです。餘程前でしたか。」と云って聞いてみたが、其の時私の聲が、恐ろしい者の前にでも、立たされている時のように、顫えていたのは、自分にもはっきり感じられた。
「さあ、あなたがお出掛けになると、間もなくでした……」とおかみの云うのが、如何にも氣のなさそうな調子なのだ。こうして、文字に書いたのでは分らないが、國は岡山だとか云うだけあって、何處かに變な訛があった。それが如何にもゆっくりと、押しのすような風に云うのだから、それが此の場合、甚く私の氣を煽ってきた。で、私は危く其の場で、おかみを蹴飛してやろうかとも思ったが、同時に私には、
「やっこさん、とうとうやっつけたなあ。」と思うと、もう其處へ岡田が、鮮血と云っては感じが現われない。私には、どす黑い、墨のような血汐にまみれて、あの持ちまえの出目を思いきり見開き、にきびの痕で固っている頰の神經を引っつらして、倒れている彼の死にざまが、はっきり見えてきた。と思うと、私はもう彼の手に操られてでもいるように、下駄箱から爪皮(※つま先カバー付きの履物)と云うのも名ばかりで、緒もゆるく、其の上に、自分の足癖として、變に歪めて履きへらした、これも桐とは名のみの古足駄を抓みだすと、それへ足を突っこんで、片手に石崎から借りてきた傘を掴むと、おかみの方へは口も利かずに外へ出てしまった。
全く、一枚の半紙を讀んだ時の、私の驚きと云うものはなかった。それは私にはそれまでに曾て感じたことのない驚きだった。
私は曾て、母の危篤を電報で知ったことがある。だが其の時の驚きも、此の時のそれに比べると、物の数ではなかった。何しろ其の時は、幾月か前から、私は母が病臥していることを承知していた上に、丁度私は其の頃、其の日其の日の飮食にさえ追われて、哀れにも餓死するのを待たねばならないような破目に陷っていた矢先だっただけに、まことに申し譯のない話だが、私はそうあるようにと思って、衷心窃に母の死なるものを願望していたのだ。と云うのは、一度其の報知を手にするが最後、私は其の當時出入りを差止められていた姉のところへ馳けつけていって、旅費をはじめ歸國後の生活の保證まで、一切姉に待つことにしようと云う考えがあったからだ。──當時私の母は、郷里にただ一人、他家で間借りをして、自から稼いで生きていたのだ。だから其の時の私は、驚きはあっても一面にはそれが、私の爲には救い主ともなってくれる關係上、反って喜びの方が先立っていたくらいのものだ。だから今此の時の驚きに近いものを求めると、それは今から四月ばかり前にあった出來ごとで、さきの行衞不明になったことを知った刹那くらいのものだった。事實私は、其の時は他に何にも考えずに、夢中に彼のいる下宿を差して急いだものだ。凄惨と云おうか、それとも醜惡と云おうか、とにかく彼の死骸のある下宿を差して私は、跛を引きながら一心に先きを急いだのだ。