第十二章 炎熱
其の晩は暑い晩だった。と云っては少し氣が早すぎる。其の日は「炎熱熾くが如し。」と云う字義通りに暑い日だった。そして、私の起きたのは、其の日もやはり正午近くだった。起きると私はもう、飯を食いに出掛ける元氣もないほど暑さにあてられていた。だから、私は終日臥たり起きたりして、只管に夜のくるのを待ちこがれていた。それに其の日は、吉川から借りてきた読賣新聞の第一面に出ていた、義手足の廣告から、私は自分の宿疾のことを考えさせられて、寂しい思いに攻められていたのだ。
其の中に、四邊の木立から聞えていた蝉の聲もややに薄れてきた。同時に私は、靜に押しよせてくる、あの惡製な硝子板の斷面を見るような黄昏時の空氣の中に身を浸しながら、死んだ者のようになって、ぼんやりと横になっていた。其處へ岡田がやってきたのだ。
「なんだ。寢てるのかい。」
これは岡田が、私の部屋へ入ってきて、最初に云った言葉だ。私はそれには答えずに默っていた。
「何處か外へ行こうじゃないか。暑くてやりきれない。」
これは、彼が第二の言葉だ。察するところ彼は、私を散歩しに誘いにきたものらしい樣子だった。
「まあ、其處へ坐りたまえ。外はまだ暑いだろう。行くにしても、も少し後にしようじゃないか。」
私はこう云って、起きようともせずに、やはり横になっていた。
「此の部屋も暑いじゃないか。なんのことはない、火に掛けられてる釜みたいじゃないか。」
岡田は無闇と外へ行こうと云うのだ。しかし私は、其の時はちょっと持ちあがる氣持ちがしなかったので、それからもものの半時ばかりは、岡田がなんと云っても聞かずに、其のまま凝としていた。二人の間には、例に依って、賴まれもしない無駄話が交換されたことは云うまでもない。やがて私達は外へでた。
やはり外も、日中の餘熱を受けて暑かった。私の宿を出た直ぐ近所では、其處の堀井戶の水を汲んで通りへ撒いていたが、それが撒く後から後と、いきり立つ地中へ吸吸されて、跡形もなく乾いてしまうのを見ていると、自然に私は頭へ眩暈を覺えてきた。そして、其の時私は、出しなに忘れてきた扇子を思いだしたが、と云って、取りに引きかえすのは臆劫だしするから、それは止したものの、それからは餘計と暑さが苦になってきた。岡田は通りへ出ると、
「おい、中橋のところへ寄ってみようじゃないか。」と云うのだ。「中橋も誘おうじゃないか。」とこう云うのだ。
私は餘り氣が進まなかった。がしかし、深く爭いもせずに、それから彼と一緒に中橋のところへ行ってみた。私は、遠くへ行かない限り、せめて歩くことに依って、嚙みついてくるような暑熱を紛かそうと思ったのだ。──其の頃中橋は、谷中淸水町にいたのだ。
岡田は中橋のところへ行くと、直ぐと彼を外へ連れだしてきた。私達は三人になると、あかじ坂と云う、元警官學校のあったところの坂をおりて、根津の大通りへ出てきた。すると岡田は、何から思いついたのか知らないが、
「ああ、酒が飮みたいなあ。」と、出しぬけにこう云うのだ。
「おい、履きちがえちゃいけないぜ。僕は氷が欲しいな。」
丁度來かかったところが、氷屋の前だったしするから、私は私でこう云った。だが岡田は、
「氷なんぞはつまらないや。僕は酒が飮みたいなあ。」と云って、此の時はどうしたのか容易に私の發議に同じようともしないのだ。それからは、歩調を取る爲のかけ聲のように一歩一歩するに從って、うるさく酒のことを云って聞かないのだ。
「飮みたいなあ。キュッと一杯……」
彼は一つことばかり繰返していた。
ところで、私は固よりそう云う餘裕はなかった。岡田とても同樣だった。これはさっき彼がまだ私の部屋にいる時に、ふと何かのことからして、金の話になると彼は、
「明日なら僕は少し金が入るんだがなあ。今日は此處に、二三十錢しかないよ。」と云っていたからだ。だから私は、彼の云うことなどは齒牙にも掛けなかった。終いに彼は、中橋に向って、
「ねえ中橋君、何處かこう一杯、飮ましてくれるところはないだろうか。金は月末に拂うことことにするから……」と云って、幾くらか調子を沈めて、相談を持ちかけたものだ。持ちかけられると、中橋はすっかり岡田の意中を見透したのだろう。
「じゃ、行こうじゃないか。三日月へいって飮もうよ。」
中橋は直ぐとそれに應じた。
「じゃ、濟まないが、君の顏を貸してくれたまえ。」
それは、如何にも申し譯なさそうな調子なのだ。それでいて彼は、もうそうと定まると自分は一足さきに歩みだすのだから、可笑しくなった。
「現金なやつだなあ。」
私はそれを見ると、こう云ってやったが、全く私は、岡田の心理を思いみた時には、本當に可笑しくて溜らなかった。
それから、私達は直ぐ其のさきの、逢初橋手前の、路次裏の三日月へ出掛けていった。──此の三日月と云うのは、中橋が現在同棲している細君の實家なのだ。