血の呻き 上篇(11)

         一一

 昼過ぎに彼は、看板屋を出て寺へやって行った。
 時子は、寺の裏の庭園の空地で、女の乾いた抜毛のような秋誇草(※)がもつれ合って乱生している中に埋まって仰向に寝ころんで何か小唄を唱っていた。彼は、忍び足に彼女の背後から歩いて行った。しかし、三歩ばかりの所で彼女は、声を立てて笑い出した。
「ばかだねえ。さっきから、知ってるのに」
 めいぞうは、くずおれるようにその草の中へ坐った。
「ほら、いい寝床をこしらえてあるのよ。此所ここへ、おで……」
 彼女は、乾いた枯草をむしり集めて、敷いた所に寝ていた。彼は、彼女の側の草の中に寝ころんだ。
 太陽は、つかれたような瞳を、遠いうつな空で、ひらいていた。黄色っぽい陽光の流れは、ものうげに地にそそいで、すべてのものを浸した。その中に、すべての物象につきまとった、寂しい陰影が疲れきったようにうずくまっていた。
 明三は、仰向になって、果てもなく深い空に見入った。
「遠いなあ……」
「何が、さ」
「空」
「ふん、どうかしてるのかい」
「死の、湖のようだ」
「馬鹿な、空の事じゃない。貴方あなたがさ……」
「人在り、愁いに疲れ、地にうつぶして泣けり。か……」
 彼は、何かの文句をきれぎれにそう言ったが急に、沈んだ低声であの漂泊さすらう、荒漠なステップを漂泊さすらうキルギス人の歌をうたい出した。
「酒が飲みたくない……?」
「飲みたい」
「ほら」
 彼女は、彼の唇に、小さなウヰスキーの瓶の口をあてて、注ぎ込みながら独言のように言った。
あたたかい国へ、行きい。鳥のように飛んで行きい。……金はなし。歩くのはいやだし。何故なぜ人間なんて土の上を這まわってるんだろう」
「虫だからさ。……おい。とってくれ。何だい、空瓶を……」
「チエッ。馬鹿にしてる誰が空けたの………」
 彼女は、瓶をほうり出して、ごろりと仰向になって、ジプシイの小唄を歌い出した。
 あかつちの、燃えるような丘が、果てもなく連っているこうである。怪しい淀んだ濃藍の、底もない深いあなのような空に太陽は、炎のように燃え爛れて、そのこうねつした光線は熱の息吹のように、地にくずおれる。空も、太陽も悩ましい吐息をし、地は、身動もしないで、その下に寝そべっている。
 灰色の廃墟のくずおれた壁の下には、熱帯のが爛れたような紅い悩ましい唇をしている。奇怪な、恐ろしい手を拡げた、サボテンの小さな森は、疲れた妖魔のように、白日の悩ましい光りの下に、眠り疲れている。
 そのこうを、短い強烈な色彩の布片きれいた素裸の体で漂泊する人々の群を、明三は、その時耐えがたいほど羨しくなった涙が、止度もなくまぶたうかんで来た。
 彼女は、たちきったように突然唄をやめて、彼の首に手をいた。
「あら、泣いてるの……」
 彼女は、驚ろいたように言って、溜息をついた。そして、そっと涙を拭って、そのまぶたに接吻した。彼は、黙って、果てもない蒼空に見入っていた。
 彼は、悩ましげなバスで、キルギス人の唄を続けた。
 重い沈んだ声は、地に低徊するように淀んだ。時子は、両手で顔をおおうて、むせび泣くヴアオロンの金属線のようなソプラノで合せた。
 涙は、止度もなく顳顬こめかみを伝って流れた。幾度瞬きしてもまぶたに溢れて湧いて来た。彼は、涙の流れるにまかせながら、歌を続けた。
 高い空を遠い国へ渡る風は、吹いた。その忍音の吐息のような、微かな気配が地を漂い流れた。女は、彼にからだをより添えて彼の顔を覗きながら言った。
「あれから、キリストはどうしたの……」
「どの、キリストが……」
「昨夜の」
「…………」
「あの、娘さんに読んで聞かせていた」
 彼は、おびえたような顔をした。
「どこで聞いていたの」
「あの、窓の下に」
「ずっと、立っていたの……」
「…………」
何時いつまでも……」
「いては、悪いの……?」
 二人は、相互の眼に見入りながら、苦しげに黙っていた。
「ね、キリストは……」
 彼女は、苦しげに言った。
「あの話は、あれっきりなんだよ。……しかし……」
「女は、赦されて、居ったの……?」
 彼女は、急に彼に背を向けて、両手で顔をおおうてしまった。その肩は、欷歔すすりないているようにふるえた。
 明三は、寂寞とした風吹くこうに、ただ一人とり残されたような寂しさの中にうなだれていた。そして、そのまま草に顔を押あてていたが遂に眠ってしまったのだった。
 彼は、低い叫声のような風の声に、眼を覚した。彼は、肩を竦めてふるえながら起き上った。陽は落ちかかって、西の空は、あらし(※)の襲来を思わせるような、毒々しい濁黄色に塗られていた。
 時子は、後頭部に両手を組んで草の上に横たわって眠っていた。彼は、そっと、顔の所にせぐくまり込んだ、生温い呼吸の触れるほど顔をよせてしみじみとその顔に見入りながら草の茎を取ってその首をくすぐった。女は、静かにからだを動かしながら、蠅でも追うような手附きをした。彼は、口をおおうて笑っていたが、その露出された白い衣のような胸を見ると、奇異な悩ましさに、わくわくして、そっとマッチを擦って枯草に火を点けた。黄色っぽい熖はのろのろと首をもたげた。そして、気味悪い燃えるくちなわかなぞのように、彼女の胸から腕にまつわってからまり・・・・着こうとした。
 明三は、わなわなふるえながら、心の中でうめき声を立てて彼女から眼を離さなかった。女は二度ばかり、手を動かしたが、突然発狂者のように声をあげて、飛び上った。そして、足でその炎をふみ消してしまった。彼は、叫声をあげて、両手で頭をつかんで草の中へつっした。
 彼女は、やがて笑いながら、彼の肩に手をいて、そのからだを揺り動かした。そして、しまいには、彼の髪に顔をすりよせてそこへよこたわった。
「キリストは、女に火もつけたの……」
「ハ、ハ、ハ、……」
 彼は、空虚な声で笑いながら、しかし寂しい顔をして起き上った。
 灰色の夜のとばりは、彼等をとりいた。
 夜更けてから、彼女の買主が、突然この寺院を訪れた。それは、ひどくよっぱらった、あばたづらくつ修繕師なおしで、彼は入口が解らなくて、深い庭園をうろつきながら、大声でわめき立てた。そして、彼女が出て行くと、いきなりその腰にしがみ着いて、むやみに肩のあたりの着物をかじった。
 しかし、ぐに床の上へ、投出されたようにどたりと顔をぶつけて倒れると、を鷲づかみにした手を振りまわして、訳の解らないごとった。
 明三は、黙って暗がりへ出た。彼女は、物も言わないで、はげしく彼の肩を抱きしめて、その髪に接吻した。明三は、その壊れた扉の所の暗がりに風に吹かれてふるえながら咲いている、白い何かの花をむしってポケットに容れた。彼は、夜の道を歩いて町へ出た。そしてあてもなく長い間町を彷徨さまよった。それは、遂ぞ通った事もないO町の狭苦しい小路であった。明三はえも知らぬ深夜の街を見、奇異な物語の国をでもさまようような気持で、歩いて行った。
 板扉をとざした、空屋のような二階建の家の前に、黒い生き物がうずくまっている。黒い蔭は、疲れ果てた物のように、微動もしない。彼は、用心深く、その方へ歩み寄って行った。
「あら、兄さん」
 疲れた小犬のように、扉にもたれて、地面にうずくまった蔭はささやくような声を立てた。
「きくちゃんかい。此所ここへ来てるの……」
 彼女は、黙ってうなずいた。
「はっちゃ、いけない?」
「駄目よ」
一寸ちょっと
「そっとよ。そっと……」
 明三は、忍足に暗い土間に立った。一枚の扉を隔てて、微かな溜息や、舌打ちなどが聞えた。彼は、暗がりの中を音もなく忍び寄った。
 暗いへやの中には、ただ一本の大きな蠟燭がついていてその炎は、暗赤色に音もなく燃えていた。その下に黒い頭が蠢めいて、何かひそひそと争うようにしていた。ほとんど、どの顔も見わけられなかったが、ただ暗い隅の方の壁にもたれて、寝そべってものうげに彼等を見ている、雪子の父の顔が、赤い焰の光りをうけて薄暗がりに気味悪いほど明らかに見えた。
 彼は、そっと、きく子の所へ戻って来た。
「早く、帰っておで、ね……」
 明三は、彼女にささやいて、その小さな掌に唇をつけた。彼女は、別な手で、彼の手を握りしめながら言った。
「兄さんは、どこへ行くの」
「今、帰るの」
「どこへ行ってたの」
「町を歩いてたの……さよなら」
 彼は、急足にそこを離れて暗いちまたを歩き出した。そして、遠い旅をした人のように疲れ果てて、宿へ帰って来た。
 雪子は、穏かな寝息を立てて眠っていた。医師は、彼女により添うほど近く、うつぶして眠っていた。
 明三は、そっと獣のように彼女に忍び寄って、生温い寝息の触れる程も、その顔を近づけて、そっと唇にくちづけした。
 そして、長い間悩ましい顔をしてそうしていたが、やがて身を起して衣嚢ポケットに容れていた、萎れた白い菊の花弁をむしっては、彼女の周囲に撒いた。それは、あの廃寺の、壊れた扉の影に、日の光りもみない人の唇のように青ざめた寂しい色をして咲いていたあの菊だ。その時、医師は、眼を覚してうれわしげに彼を見た。
 明三は、黙ってそこを出た。
 彼はしかし、自分のへやに帰ってから、壁の破目から雪子のへやを覗いた。医師は、そっと忍び寄って彼女の額に接吻していた。
 明三は、恐ろしいものでも見たように、ぶるぶるふるえて壁を離れ去った。