第58節
倉田百三(※劇作家。『出家とその弟子』)氏のものは、私は二三読んだだけであるけれども、あれなどが即ち人道主義の落ちて行った場所なのだろうか。成ほどそう言えば、その間に多くの連絡がないではないように思われた。
つまらないことに大騒をする形だの、いやに赤く乱れたようなものの言い方をする形だの、実際には少しも触れずに、触れても見ずに、本から得た知識で物を言っている形だの、無闇に魂ということを高調する形だの、成ほどそう言えば、人道主義によく似たところが沢山にあるのを私は見遁さなかった。
しかし、その芸術は決してすぐれたものではなかった。あの弱さは? あの低級さは? あの読者に媚びた形は? 自他融合はそれはいいことであるけれども、また自分の心持を他の中に投げ込むことも決してわるいことではないけれども、ああしたやり方は、心持は、また書き方は、わるく他を誘惑したような形に堕ちて行ってはいはしないか。もっとはっきりあらわすことが必要ではないか。もっと実際に当って見ることが必要ではないか。もっと強くなることが必要ではないか。
作者の感激するのはそれはいい。感激からいつもいいすぐれた作は生れて来る。しかし、その感激にも度数がある。階段がある。高い低いがある。無暗に感激したり感傷したりするのは余りいいものではない。場合によっては、かえって他を動かすことができないばかりでなく、反対に他から蔑視を買うような形になるものである。感激の安売! こう言ってよく馬鹿にされているのを私はあちこちで見た。
それに、説法をする形がある。あれがよくない。宗教的とか、何とか言うと、すぐそう思い上るから好くない。芸術は説法ではない。また宣伝ではない。作者がぢかに表面に出て物を言っているのでは、それではすぐれた芸術と言うことはできない。作者はずっと奥の方にかくれていてさえ、それでさえ、すぐそれを指摘されて何の彼のと言われるのである。作者はあくまでかげにかくれていなければいけない。また本当の意味で謙虚でなくてはいけない。思い上ってはいけない。倉田派一派の作品には、そうした欠点がありはしないか。つまり、解剖とか、観察とか、理解とか、そうしたことを無視した人道主義的傾向を持ったために、そのために無意識にそうした穽に落ちて行った形ではないか。
それに、それに関連したと言っていいかわるいかは知らないけれども、この頃では、いやに宗教的傾向ということが持ち上げられる形がある。これなども人道主義がもたらして来た弊害のひとつではないかと思われる。
それも実際に宗教的に作者の頭がなって行ったのなら、それならまだいいけれども、そうでなしに、無闇に低級に感激して、やれ親鸞が何うの日蓮が何うの言っているのは何うしたものか。そして自分一人が大きな発見でもしたような顔をしているのは何うしたものか。こんな不真面目な傾向は、ここにわざわざ指摘するほどのこともなく、すぐ流れて行って了うであろうけれども、決していいこととは私には思われなかった。