第四章 莫迦
「そうよ。利口じゃないさ。」
石崎は忌忌しそうではあったが、一應は私の云った言葉を肯定したかと思うと、直ぐ其の後へ、
「だが其處にはまた、莫迦なだけでは分らない意氣があらあなあ。」と云うのだ。其の言葉の中には、當の相手たる私を、冷笑侮蔑するの分子を多分に含んでいた。少くとも私にはそう感じられた。だから私も、其處で一矢を酬いなければならないような氣持ちになってきた。
「じゃ何かい。君は其の莫迦には分らない、言いかえると、利口な者でなければ分らない心意氣の爲に、見事莫迦になって退けたのかい。」
私は胸中の不愉快さを、態と笑顔に隱してこう云ったが、それがとうとう短慮な石崎を怒らしてしまった。
「そうよ。俺は莫迦だよ。ああ、俺は莫迦だよ。」
石崎は同じことを二度重ねて、さも無念そうに云うと同時に、つけたばかりの敷島を火鉢の中へ投げすてて、目を見張り堅く口を結んでしまった。殊に其の口付は、韮でも嚙みしめたような風だった。私はまた、始ったなあと思った。
昨夜彼が、小夏を相手に喧嘩をしたと云うのも、畢竟するところは、丁度此の場合と同じように、心持ちの問題であり、氣分の問題から始ったことなのだろう。つまり、彼の蟲のいどころ如何から起ったことなのだろう。そう思うと、私は本當に莫迦莫迦しくなってきた。私は短慮無比な彼を憫れむと云うよりは、寧ろ彼を憎惡するの念が先立ってきた。だから其の時私は、其のまま歸ってこようかとさえ思ったくらいだ。だが事實は決してそうはせずに、私はやはり石崎と對坐していた。と云うのは、私には私の誇りがあったからだ。──私は此の場合、追われる者のように石崎の前を退いて、重ねて彼が侮蔑の目でもって、見送らるるのを惜しむの念に堪えられなかった。其處で私は、もう一度自分の煩っている脚を撫しながら、坐りなおした。
「だってそうじゃないか。君はちと短氣過ぎるよ。何も足蹴にしなくたって、どうにか話がつきそうなものじゃないか。結局は相手の氣持ちを惡くさせるばかりか、延いては、自分自身の氣持ちまで、どんなに惡くしたか知れないじゃないか。」と云ってやった。此の言葉の意味は、耳目にする通りの意味しか持っていないのだが、ただ私は、それを如何にも靜に、如何にも優しく口にしたのだ。例えば、手管者の口から洩れる口說のように云って、私は凝と石崎の方をみた。石崎はやはり默っていた。ただ目だけは、彼の方から見て右の方になる、障子の棧の上に遊んでいた。
「そうじゃないか。折ます先生だって、何も惡氣があって、そうした譯じゃなかろうじゃないか……」と云っていると、石崎はまた敷島へ火をつけて、
「惡氣があってのことかどうか、それは僕には分らないが、とにかく僕には、そう取れたんだ。」と云って、今度は敷島を貪るように口にし出した。ところで何處をみても、彼の顏面には、依然として微塵優しい表情はみられなかった。私は彼の顏と、彼の言葉とを見聞きすると、いよいよ彼を輕蔑したくなってきた。殊に彼のエゴイステックな點が、どう考えても、憫れでもあれば、また憎くて憎くて溜らなくなってきた。
「それは少し無理だよ。我がまま過ぎるよ。」
私は此の言葉を、彼の言葉に、おっ冠せるようにして云ったものだ。そして、直ぐ後をつづけて、
「そうじゃないか。そりゃ君の身になれば、君の立場からすればだ、相手の仕打ちなるものが、有ゆる殘忍酷薄な手段でもって、虐殺して退けても、なお飽きたらなかったかも知れないさ。だがしかし、そう考え、そうしちゃっちゃ、僕達に何らの思慮も、何らの批判も入らなくなるじゃないか。そうだ。これは僕達の少年時代に覺えのあることだ。僕達が母に能く物ねだりをすると、多くの場合母は、僕達の望んでいる物よりは、ずっとつまらない物ばかりくれたもんだ。すると、僕なんぞは、矢庭にそれを其處へ投げだしたもんだ。それが壞れものででもあって見たまえ、無慘にも其の場で、原形も止めず粉微塵になっちまあなあ。若しそう云う時に、僕の母がだ、此の僕の態度を憎んで、君が折ますに對して取ったと同樣の態度で臨むとしたら、僕はもう今夜此處で、君とこうして話なんぞしちゃ居れなかったに相違ない。だから僕は、其の時の母の寛仁さを思うよ。そして、それが人間の取るべき一等いい本當の態度だと思うよ。」と云ってみた。此の言葉には、殊に結末の方の、「母の寛仁さ云云。」のところへくると、石崎よりも、先ず私自身が感激せずには居れなかった。同時に、私は此處へくると、私がそれまで、石崎に對して取ってきた、私自身の態度に就いて、深く恥なければならなかった。そう思うと、ことの是非善惡は暫く措くとして、石崎が前夜小夏に對して取った態度も、また其の心持ちも、丁度晴れゆく朝靄の中から見る遠近の山山の姿のように、若しくは、合せかけている兩眼鏡の度が、ぴたりと合った時のように、私にはっきりしてきた。少くとも私には、其の際石崎が小夏に加えた仕打ちが、幾くら苛酷殘忍を極めていても、それは決して、單なる憎惡から發したものではないことがはっきり分ってきた。それどころか、石崎のは謂うところの可愛さあまって憎さ百倍したそれだったに相違ない。そう思いかえして、私が石崎の方をみた時にはいきなり私は彼を抱きしめて、彼の額に口付してやりたくなった。