第四章 莫迦

「そうよ。こうじゃないさ。」

 いしざきいまいましそうではあったが、一おうわたしったことこうていしたかとおもうと、あとへ、

「だがにはまた、なだけではわからないがあらあなあ。」とうのだ。ことなかには、とうあいたるわたしを、れいしようべつするのぶんぶんふくんでいた。すくなくともわたしにはそうかんじられた。だからわたしも、いっむくいなければならないようなちになってきた。

「じゃなにかい。きみにはわからない、いかえると、こうものでなければわからないこころために、ごとになって退けたのかい。」

 わたしきようちゆうかいさを、わざがおかくしてこうったが、それがとうとうたんりよいしざきおこらしてしまった。

「そうよ。おれだよ。ああ、おれだよ。」

 いしざきおなじことを二かさねて、さもねんそうにうとどうに、つけたばかりのしきしまばちなかげすてて、かたくちむすんでしまった。ことくちつきは、にらでもみしめたようなふうだった。わたしはまた、はじまったなあとおもった。

 さくかれが、なつあいけんをしたとうのも、ひっきようするところは、ちようあいおなじように、こころちのもんだいであり、ぶんもんだいからはじまったことなのだろう。つまり、かれむしのいどころかんからおこったことなのだろう。そうおもうと、わたしほんとうしくなってきた。わたしたんりよかれあわれむとうよりは、むしかれ憎ぞうするのねんさきってきた。だからときわたしは、のままかえってこようかとさえおもったくらいだ。だがじつけっしてそうはせずに、わたしはやはりいしざきたいしていた。とうのは、わたしにはわたしほこりがあったからだ。──わたしあいわれるもののようにいしざきまえ退いて、かさねてかれべつでもって、おくらるるのをしむのねんえられなかった。わたしは、もう一ぶんわずらっているあししながら、すわりなおした。

「だってそうじゃないか。きみはちとたんぎるよ。なにあしにしなくたって、どうにかはなしがつきそうなものじゃないか。けっきよくあいちをわるくさせるばかりか、いては、ぶんしんちまで、どんなにわるくしたかれないじゃないか。」とってやった。ことは、もくにするとおりのしかっていないのだが、ただわたしは、それをにもしずかに、にもやさしくくちにしたのだ。たとえば、くだものくちかられるぜつのようにって、わたしじっいしざきほうをみた。いしざきはやはりだまっていた。ただだけは、かれほうからみぎほうになる、しようさんうえあそんでいた。

「そうじゃないか。おりますせんせいだって、なにわるがあって、そうしたわけじゃなかろうじゃないか……」とっていると、いしざきはまたしきしまをつけて、

わるがあってのことかどうか、それはぼくにはわからないが、とにかくぼくには、そうれたんだ。」とって、こんしきしまむさぼるようにくちにしした。ところでをみても、かれがんめんには、ぜんとしてじんやさしいひようじようはみられなかった。わたしかれかおと、かれこととをきすると、いよいよかれけいべつしたくなってきた。ことかれのエゴイステックなてんが、どうかんがえても、あわれでもあれば、また憎にくくて憎にくくてたまらなくなってきた。

「それはすこだよ。がままぎるよ。」

 わたしことを、かれことに、おっかぶせるようにしてったものだ。そして、あとをつづけて、

「そうじゃないか。そりゃきみになれば、きみたちからすればだ、あいちなるものが、あらゆるざんにんこくはくしゆだんでもって、ぎやくさつして退けても、なおきたらなかったかもれないさ。だがしかし、そうかんがえ、そうしちゃっちゃ、ぼくたちなんらのりよも、なんらのはんらなくなるじゃないか。そうだ。これはぼくたちしようねんだいおぼえのあることだ。ぼくたちははものねだりをすると、おおくのあいははは、ぼくたちのぞんでいるものよりは、ずっとつまらないものばかりくれたもんだ。すると、ぼくなんぞは、にわにそれをげだしたもんだ。それがこわれものででもあってたまえ、ざんにもで、げんけいとどめずこなじんになっちまあなあ。しそうときに、ぼくははがだ、ぼくたい憎にくんで、きみおりますにたいしてったとどうようたいのぞむとしたら、ぼくはもうこんで、きみとこうしてはなしなんぞしちゃれなかったにそうない。だからぼくは、ときははかんじんさをおもうよ。そして、それがにんげんるべきいっとういいほんとうたいだとおもうよ。」とってみた。ことには、ことけつまつほうの、「ははかんじんうんぬん。」のところへくると、いしざきよりも、わたししんかんげきせずにはれなかった。どうに、わたしへくると、わたしがそれまで、いしざきたいしてってきた、わたししんたいいて、ふかはじなければならなかった。そうおもうと、ことのぜんあくしばらくとして、いしざきぜんなつたいしてったたいも、またこころちも、ちようれゆくあさもやなかからえんきんやまやま姿すがたのように、しくは、あわせかけているりようがねが、ぴたりとったときのように、わたしにはっきりしてきた。すくなくともわたしには、さいいしざきなつくわえたちが、くらこくざんにんきわめていても、それはけっして、たんなる憎ぞうからはっしたものではないことがはっきりわかってきた。それどころか、いしざきのはうところのわいさあまって憎にくひやくばいしたそれだったにそうない。そうおもいかえして、わたしいしざきほうをみたときにはいきなりわたしかれきしめて、かれひたいくちづけしてやりたくなった。