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第12節

 その時分においての小説の中心は、何んと言っても紅葉を盟主にした硯友社であった。柳浪(※広津)、水蔭(※江見)、小波(※巌谷)、眉山(※川上)──中でも眉山と水蔭とが望みを嘱されていた。柳浪は何方かと言えば、硯友社の正系ではなく、客分と言ったような形であった。『黒蜥蜴』『変目傅』などという、何方かと言えば暗い感じのするものを書いた。紅葉もかれには一目を置いているという風であった。『広津はあれで芸が枯れているからね。役者で言えば、ちょっと団蔵というところだね。ちょっと真似はできないよ』こんなことを言ったのを私は聞いたことがあった。眉山も美しい、派手なものを書いた。『白藤』『賎機』などを書く時分には、かれも中々評判が好かった。
 水蔭は一種独特の調子を持っていた。短いものが巧かった。尠くともかれの集中には、今日読んでも面白いものが五六はあるであろうと思われる。惜しいことには、かれには芝居気があった。あまりに草双紙風な誇張と叙述とがあった。それに、社会との接触が次第にかれを低級にして行った。『泥水清水』あたりから、次第にかれは下り阪になった。
 それに、硯友社の強みは、出版業者との堅い結託であらねばならなかった。当時、出版界において有力者と言われた春陽堂、博文館、すべて硯友社の自由になった。紅葉が頭を横に振れば、何んなにすぐれた作家も、本を出版することができないようになっていた。従って当時の文学青年は、その質において、またその気分において、はなはだ硯友社と相容れないものまでも、皆な紅葉の幕下に赴くようになって行った。
 この時分においては、早稲田ももうかなりに発展していた。その待った『早稲田文学』は、千駄木の『しがらみ草紙』と優に相対抗した。坪内氏も決してその没理想の塁を徹しなかった。英文学とドイツ文学の対抗を私達ははっきりそこに見たような気がした。
 早稲田では、第一期に金子馬治(※筑水)が出て天才論を書いた。第二期には島村抱月と後藤宙外とが出た。宙外はその卒業論文に『紅葉論』を草した。これがかれの後になって硯友社に近寄って行く動機のひとつとなったのであった。
 紅葉はその時分は『紫』だの『冷熱』だのを書いていた。かれは尠くとも『三人妻』に行って一転した。とても、こんなものを書いていては駄目だ………というやうにかれは考えたらしかった。次第に時代は移りつつあった。新しい芽はそこにもここにも萌え出した。聡明なかれは、逸早く新機軸を出そうと心懸けた。
 かれはこの時分、ゾラからモウパツサンのものなどを読んでいたらしかった。それは無論、何の点まで深く読み入っていたかは知れなかったけれども、よく『ピエル、エ、ジャン』の話をしたことなどを覚えている。また次のようなことをも言った。
「ああいふライト、タッチで書くようになれば、それはもう大したもんだけれども、そこまで行くのが中々大変だからね──。ちょっと真似はできないよ」
 しかし、文壇の中心になっているグルウプは、決して新しい芽を多分に持ってはいなかった。多くはコンヹンシヨナルであった。文章とか文体とかでなければ配合とか色彩とかに力を集中して、決して深い人間性の中まで飛び込んで行こうとはしなかった。そういう方面に入って行くのは、かえって芸術の神聖を冒瀆するものであるとさえ思われた。それに、今日と比べては、党をつくるという風が盛であった。硯友社、早稲田派、千駄木派、根岸派、国民派などといふ区別があって、皆なてんでに、雑誌や新聞かによって気炎を挙げていた。