血の呻き 上篇(6)
六
明三は、その終日を海岸の壊れた倉庫の中で、眠っていた。そして、日が暮れてから、宿に帰って行った。扉の所で茫然立っていたきく子は、走り出て来て彼の手を摑んだ。
「兄さん……。帰って来た。帰って来た。まあよかった。どこへ行ったの」
彼女は、息を切らしながら、せかせかと訊ねた。
「仕事を探しに……」
明三は、沈んだ声で呟くように言った。
「姉さんは、泣いてたのよ」
「泣いて、………どうして……」
「何も、言わないのよ」
「そうかい。お父さんは」
「お父さんは、きっと兄さんは、どこかへ行ってしまったんだってそう言うの……」
「行ってしまやあしないよ」
彼は、少女に手を曳かれながら雪子の室へ行った。彼女は、明三の顔を見ると、急に発作でも起ったように慄えて、起き上った。
「どこへ行ってたの……」
「仕事を探しに……」
「そう。いい仕事があって……」
「ええ──」
明三は、弱々しい微笑をした。彼女は、続けて何か言おうとしたが、じっと彼の眼に見入って、悲しげに眼を閉ってしまった。その時明三は、ふと、あの絞殺される為めに牢獄から曳出された囚人が、しみじみと彼の眼に見入って、おびえたように眼を閉ってしまった姿を思い出して、身慄いした。そして、彼女の額に触ってみた。
「熱がある。ひどく……。苦しかあないの……」
「手を、私の……手を握って下さいな。暗い穴へ落ちて行くような気がするの」
彼女は、弱々しい声で言って、眼を閉ったまま彼の手を探しもとめた。彼は、慄えながら、そっとその指を握った。
その時、この病衰ろえた娘は、痛ましげに眼を開いて、あの暗い冷たい牢獄の、石の壁の小さな隙間から執拗に覗いた、死を言渡された囚人のような眼で、しみじみと彼の眼に見入ったのだった。彼は、何故かその死刑囚の執拗な幻影に悩みながら、怖えて、手を引込ませようとした。
腹立しげな沈んだ顔をして老医師がは入って来た。
彼等は、悩ましい沈黙の中に、頭を垂れていた。
老医師は、そっと彼の肘に触って、殆んど聞きとれない程な低声で、咡いた。
「ほんの些し……。失礼ですが、私の為に話して下さい」
明三は、不快な顔をして、彼に跟いて室を出た。きく子は、何か哀訴するような眼をして、じっと明三の眼に見入った。
彼等は、暗い通路の壁の下で、立止った。
「私に、すっかり話してくれる事が出来ませんか。その曲馬団(※旅する芸人の一座 サーカス)にいた時のことを……」
「どんな事を………?」
「貴方があの女の何なのか……」
老医師は苛立しげに言った。
「何でもありませんよ」
「あの娘は、貴方の為に、すっかり霊をかき挘られて、慄えてるんです」
医師は、彼の顔に触れるばかりに顔をすりよせて、沈んだ声で言った。
「…………」
明三は、暗がりの中で沈黙ってその人を凝視した。
「あなたは、あの女をどうしようと言うんですか。……つまり、……」
「どうもしません」
明三は低い声で、呟くように言った。
「そ、然うですか……」
老医師は、歯をくいしばって、それっきり黙り込んでしまった。そして、暗い壁に顔を向けて低く跼まり込んでしまった。
明三は、杭のように黙りこくって、立っていた。
長い間を経てから、老医師は踞まったまま、弱々しい声で言いかけた。
「貴方は、此所に無論長くいるんでしょうね」
「…………」
「何故、こんな所に、居るんです。首に締縄をまかれるような、いやな生活の中に……」
「へ、へ、どうも、お互にあまり有難くもないらしいですね。生きているって事も……。所で、酒はどうですか」
突然苦しげな首を締められたような声で明三が言った。
「いいえ。飲みません」
老医師は、沈んだ声で答えた。
「なるほど。所で貴方の御用事はそれだけですか」
「用事。ふうむ、何も、何もこんな話をする用事はなかったのですね。私たちは」
「そうですか」
「出来る事なら、貴方は……」
老医師は、歪んだような顔をして一語毎に喘ぎながら、言い出した。
「何所かへ行って下さい……」
「何所へ………」
「何所へでも」
「ハハハ……よく、貴方のお話は、解りました」
明三は、冷たい声で言ったが、その軀は、痙攣でも起ったようにわなわなと慄えていた。彼は、老医師をそこへ残して青ざめた顔をして、頭を摑んで、雪子の所へ歩いて行った。彼女は、萎れつくした花を唇にあてて、匂いを嗅いでいた。きく子は、妙な寂しい顔をして、暗い壁に靠れて坐っていた。
「頭が、痛む?……」
雪子は、首をかしげて訊ねた。
彼は、溜息をついて弱々しい笑を泛べた。そして、黙ってそこを離れてまた薄暗い出口の方へ歩いて行った。
老医師は、あの時のままの姿で暗い壁の下に踞まっていた。
「何所へ、行くの……。兄さんは……」
暗がりを、歩いて来ながら、菊子は戸口の所で言った。
「外へ」
「お父さんは、何を言ったの」
「…………」
「兄さん」
「なあに……」
「怒らないでね。お父さんを」
明三は、戸外の暗い虐まれたような悲痛な顔をして地面へ跼まり込んだ。
「ね、怒らないで……」
きく子は、彼の膝に摑まって、泣くような声で言った。
「あのね、きくちゃん。僕は……、僕は……、白痴だから、どうぞ、何も、かも宥して下さいって。お父さんに、ね……」
彼は、涙をそっと拭いて弱々しく言った。少女は、しっかり彼に摑まって、体を慄わしながら、すすり泣いた。
「誰が、悪いの、……兄さん……」
きく子は、彼の胸に強くその顔を押あてて、泣きながら訊ねた。
明三は答える事が出来なかった。そして唯、彼女の髪の上に顔を押あてて声を忍んで泣いた。二人は、長い間その暗い地面に踞まって泣いていた。
「姉さんの所へ行きましょう」
「きくちゃん、行っておくれ」
「兄さんは……」
「ほんの些し、私を一人で置いておくれ」
「行っちゃ、いやよ」
「…………」
「ね」
「…………」
少女は、離れ去ってから、も一度暗がりに、彼の手を探り求めて握った。そして、小鳥のように飛んで行った。
明三は、憂わしい重い心を抱いて、暗い巷をあてもなく歩いて行った。彼は、走るようにして街角をまわった。そして何かに追われてでもいるように、急ぎ足に街から街へむやみに歩きつづけた。そして、終にひどく鞭打たれた馬車馬のように、胴慄えしながら、路上に跼まり込んでしまった。石造の倉庫の立並んだ、海辺の街で、路は、深い峡谷の底のように暗く、寂然としていた。彼は、長い間その地面に坐ったまま、段々低く跼まり込んで何か独言をしていたが、終に立上ってまたのろのろと宿の方へ帰って来た。彼が帰った時は、木賃宿の人々はひっそり寝しずまってしまっていた。薄暗いカンテラの灯光の下に、何時ものように医師は、片隅の壁に靠れて、眠っていた。雪子は、壁の方に顔を向けて、呆然眼を睜いて、何か考え耽っているらしかった。明三は、忍び足にそっと這入って行った。
「あら」
彼女は、明三が書きかけた短い作の原稿を手に握っていた。明三は、彼の側に踞まって咡いた。
「街を歩いていたの……」
「そう、私も、歩きたいけど」
彼女は、そっと彼の手を握って悩ましげに言った。
「私、今、これを読んで妙な事を考えていたの……」
「どんな」
それは、五つばかりの女の児を瞞して、どこかの街外れの空屋へ連れて行って、散々弄んだ上、鉈でずたずたに刻んで殺してしまったあの死刑囚の事件を書いたものだった。
「誰かが、私を殺して、くれればいいと思うの。その男のように残酷に……。あなたでも……」
娘は、淋しい薄笑いをして、力なく彼の顔を見たが、急に怖えたように慄えた。
明三は、気味悪く青ざめて歪んだ顔をして、ぶるぶると唇を震していた。
「殺してやる」
彼は。荒々しい声で、呻くように呟いた。
「殺して、ずたずたに刻んで血を啜ってやる」
明三は、怪異に眼を光らせながら、苦しげな息を吐いて言った。
娘は怖々と、彼の唇へ、ふるえる手をさし延べた。
「父も、殺してね」
突然、雪子は発作的に笑い出しながら、呟いた。
「どんな、お父さん……」
「私の首をしめたのよ。お父さんは……」
「よし、殺して、どこかへ埋めてやろう」
「ほら、此処にも……」
彼女は、踞まって眠っている老医師を指した。明三は、苦しげに顔を反けた。
「ふうむ。それから、自分の頭もめちゃめちゃに鉞で叩いて、殺してしまうさ……。ハ、ハ、ハ、ハ……」
彼は、痙攣たような笑いをした。
「あなたは、何故そんな事を言うの……」
「何故……?」
彼は、惨めな歪んだ顔をして焼きつくような眼をして彼女の眼に見入った。
彼の眼から顔を反けながら、哀れっぽい声で言った。
「わたし、聞き度いの。貴方はあれから、どんな事をして……」
「だから、この間も話したじゃないの。僕は唯、方々うろついてたんだよ。皆に掃出されながら…。雪さんこそ、………僕あ聞き度い」
「わたし……」
彼女は、苦しげに声を切った
「随分辛いめにあったの……、私は、父に……あの病院から引取られて此処へ来たのよ。その時からずっと、此所にいるの。この壁の下に……。そして……」
明三は然し、その言葉を聞いてはいなかった。彼の心は耐えられない程悩乱していた。彼は、泣き出しそうな顔をしている彼女を残して、自分の室に帰った。
そこの暗がりに、きく子は横たわって、自分の唇に指をあてて、穏かな寝息を立てて眠っていた。
彼は、跼まり込んでじっと少女の顔に見入っていたが、遂に跪いてその額に唇をつけた。そして、胸をかみ破られるような、寂しさに襲われながら、暗い壁に靠れて踞まった。
次の日、明三は扉の所で、老医師に出会った。彼は、黙ってその人に頭をさげた。
「雪子は、貴方を待っていました」
老医師は、手に水を容れたカップを持っていた。
「あれは、事実でしょうか。雪さんのお父さんが、彼女を殺そうとしたってのは……」
「殺…………。然うかも知れません」
老医師は、手を慄わして、カップの水をこぼした。
「どんな事が、あったんです」
「非常に、あの女を愛していたのです」
「非常に……?」
明三は、聞きなおした。老医師は、逃れるように行ってしまった。明三は、溜息をついてその人を見送った。少女は、小鳥のように、何かの小唄を唱いながら、どこかから帰って来た。
「あら、兄さんは……」
「あのね、きくちゃん。雪さんのお父さんは、あの女を殺すとこだったって……、何をしたの……」
彼女は、彼に寄添ってまじまじとその眼に見入りながら、厭わしげに低声で言った。
「まあ、そんな事を……。何故兄さんは、そんな事を聞くの」
少女は、気難かしい顔をして黙っている彼を見ると、怖々と言い出した。
「あのね、恥かしい事を……」
「どんな……」
「犬のような……」
「犬の……」
「姉さんは軀が悪くて、寝てたのに」
「姉さんは、全二日も泣いてたわ……。その次の日にお父さんは、酔ぱらって来て気狂いのように、姉さんを絞殺してしまうって言うの……そして、……あら!」
少女は、突然彼に軀をすりよせて、その胸に摑まった。
片眼の、老いやつれた鴉の嘴かなぞのような妙な尖った鼻をした老人が、酔ぱらった青い顔をしてそこへは入って来た。
その人は、不快らしい顔をして、黙って明三に頭をさげた。そして、ちらと少女の方を見たが、そのまま奥の方へは入って行った。
「誰だい」
きく子は、慄えるような吐息をしながら言った。
「あれが、そうなんだわ。姉さんのお父さんよ」
「あれが……」
「ね、行きましょう。兄さん……。きっと、困った事が出来るの」
彼等がは入って行くと雪子の父は、意地悪い犬のような顔をしながら、医師と言い争そっていた。
「些し、どこかへ行ってろ? 犬奴……、何だってそんなにくっついてやがるんだ」
「何が、貴方の邪魔になるんです」
「汝の、生きてる事がよ」
「貴方の生きてる事は、誰の邪魔にもならないんですか」
「何だって、貴様?」
然し、その老人は、この時自分の背後に立っている、明三を見ると、急に黙り込んでしまった。そして、何かうろうろしていたが、ぶつぶつ独言を言いながら、出て行ってしまった。
雪子は、恐ろしい青ざめた顔をして、慄えながら刺すように自分の父を見ていた。医師は、苦しげに息を切らしながら、青ざめた顔をして唇を顫していた。